鹿児島市の「マコセエージェンシー」さん

先月、義父が亡くなった。

葬儀の段取りは、義母が中心に行った。
妻は、鹿児島市の「マコセエージェンシー」さんのオリジナル会葬礼状を知っていた。

葬儀社からの提案の中にあったが、義母は選択をしなかった。
担当者に聞くと、以前はオリジナル会葬礼状もあったが、自社の数名の専門部署を作ってから希望は少なくなっているとのこと。

昨年、執筆した「さらば価格競争」に同社を取材し執筆したが、非価格競争の上を行く、「オンリー1価格」でボツになった。
自宅近くの葬儀社に行き、聞いたら同社の会葬礼状を扱っていた。

五十嵐社長に取材した。

オリジナル会葬礼状を男女別、年齢別、職業別等に1000パターンを作り始めたが、例外、例外ばかりで使いものにならず、個々になった。
知り合いの亡き葬儀社の社長に相談したら、「いいね」、「いいね」で広がり始めた。

数社のライバルが出たが、三世代家族が多い鹿児島市の100名以上の女性社員が涙ながらに書いているので、ライバルはかなわない。
ちなみに取材した葬儀社と義父の葬儀社は同じだ。

2015年11月の私の投稿。

こんな会葬との出会いがありますか。

本日は、ご会葬頂き、誠にありがとうございます。
夫〇〇〇〇は、平成二十六年十月〇〇日七十二歳にて生涯に幕を下ろしました。

私が夫に渡していた携帯電話。発信履歴の一番最後は、息を引き取るほんの二時間前でした。そして、それは長女宛。しかし不思議なことに娘の方には着信が残っていませんでした。
早朝でしたので、夫は娘を気遣い、呼び出し音が鳴る前に電話を切ってしまったのでしょう。

「元気になったよ」と言いたかったのか・・・。はたまた声を聞きたかったのか・・・。あの時、何を話し何を伝えたかったのか、それを聞く術はありません。

女性ナレーターの声と共に、隣席の法政大学大学院、坂本光司教授を含め、神田経営者クラブ、静岡県中小企業経営革新フォーラム21、福井県中小企業経営革新フォーラムの私を含め20名の社長等からすすり泣きがもれた。

鹿児島市の新幹線の鹿児島中央駅から徒歩5分の「マコセエージェンシー」さんの視察の一場面だ。

昭和32年生。五十嵐芳明、美術好きな恩師の影響でデザイナーを目指した。
東京から鹿児島に戻り、広告代理店で7年間営業をやる。社長がガンで亡くなり会社も解散、解雇された。

昭和63年に会社を興す。後発だったが黒枠広告に参入する。成功した社長の7割は創業当初、資金繰りに苦労するが、エンジェルの恩師と出会い、資金繰りの苦労はなかったと言う。

気持ちの良い葬儀ってなんだろう。立派な祭壇、花壇?違う、悩んだ。
親戚代表の心のこもった挨拶がヒントになる。
今のオリジナル会葬礼状が浮かぶ。14年前だ。

同じ時を刻み、同じ道を歩んできた私達夫婦は十一月で結婚四十周年を迎えます。子供達からのプレゼントで、来月には二人で相撲の九州場所を観に行く予定でした。「この日だけは治療日程を組まないで下さい」と、夫は何ヶ月も前からお医者様に頼み、何が何でも行くのだと、体調管理に気を配ってまいりました。

願いは叶わなくなってしまいましたが、きっと また再開できると信じていますので、その時の為に約束はしっかりと心に留めておこうと思います。電話の発信ボタンを押したなら、最後にこう伝えます。
「幸せでしたよ・・・本当に本当にありがとう」
~妻より

今では、47都道府県、1560の葬儀店から年間118、000のぬくもりも発信している。全国の1割。
マコセを追って、10社程度競合会社が出る。かなわない、結果としてシェアだが片手間ではできない。
成功の鍵は、
この面では才覚のない五十嵐に代わる、鹿児島の風土で育んだ優しい鹿児島魂を持った素敵な女性達だ。

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