法律と倫理

これまでも本ブログで法律はあくまで最低限の決め事であり、法律を守ることは当然としても、法律さえ守ればいいというものではないというメッセージをお伝えしてきました。

 ソクラテスは、法律に関して次のように言っていたと言われています。

「人は互いに不正を加えたり受けたりし合っているが、その両方を経験してみると、一方を避け、他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えたり受けたりしないように互いに契約を結んでおくのが得策だと考えるようになる。そこで人々は法律を定め、その命ずる事柄を合法的かつ正しいと呼ぶようになった。」

 つまり法律とは人と人との関係を調整する妥協的な取決めに過ぎないと言うことになります。したがって、法律は必ずしも具体的な事情においては、適切な対応とならないことがあります。法律が理不尽だと思うことは、皆さんもあると思いますが、そのような時は、上述した「互いに契約」(妥協の産物)が上手く機能しない場合ということになります。つまり、法律は上手く使える場合と使えない場合が出てくるということです。

 そこを超えたところに、その人の「あり方」があります。あえて言えば、「善」のあり方です。現在放映されている渋沢栄一の喩えで言えば、法律は「そろばん」、善のあり方は「論語」となります。

 最近、資本主義の限界が指摘される中、「見えざる手」で有名な「国富論」のアダムスミスのもう一つの著書である「道徳感情論」が脚光を浴びています。

「見えざる手」は、ご承知のように自らの利益を最大限追求すれば、自然と社会の繁栄と調和が得られる、という理論です。しかし、これには皆が道徳的適正感、有徳の正確が必要だといわれています。それを記したのが道徳感情論だと言われています。つまり客観的・形式的な基準のみでは、社会は円滑に動かず、そこには、かかわる人たちの「善」や「徳」が必要だということです。

 人を大切にする経営の取組は、この「善」や「徳」をどうやって身に付け、普遍化していくかを追求しているのだと思います。日々精進が必要です。

(学会 法務研究部会 常任理事 弁護士山田勝彦)

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