アフラック大竹美喜の語録

大竹美喜を日本進出の責任者に抜擢したアフラック創業者ジョンBエイモスの印象         (1972年ジョージア州コロンバス本社にて)                         「人と人の関係は会った瞬間に決まることがあります。彼を見てアメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンに出会えたという印象の感激を抱き、この人のためなら日本での事業認可取得や販売網の構築を責任持ってやり遂げようと決意しました」

友人知人の9割から日本でのがん保険という縁起の悪い事業はやめた方が良いとの意見を受けて  (1972年『半田寛子』という闘病体験記を読み、患者と家族に与える壮絶な苦しみに衝撃を受ける)   「人は『がん保険は無理』と言うが、苦しんでいる人がいる。他人がやらないなら自分でやるしかない。使命感に燃え、人の役に立つ天職だと思いました」

認可申請のため大蔵省、厚生省に毎日足を運ぶが全く相手にされない時               (1973年既に面識のあった田中角栄首相からの激励)                    「『そうか君は要するに”民間厚生省”をつくるんだな。日本の財政は持たない。公的な社会保険制度は崩壊する。これからは君たち民間が主役だ。いい仕事を見つけてきたじゃないか』と言われ、この”民間厚生省”という単語に励まされました」

2年経っても認可申請が通らず、ついに米国本社が日本進出を中止すると大竹に伝えてきた時     (1974年テレックスでの撤退宣言と社員の再就職の斡旋依頼を受けて)                 「自分が全てのリスクを負う。社員の給料や必要経費も自分が負う。がん保険の事業に惚れ込み、この仕事がしたくて仕方がなかった。人助けができるチャンスだと思っていました。人生のチャンスを前にしたとき、慌てず臆病にならず前向きに行動するためには、リスクに挑戦する気持ちを若いうちから養っておく必要があります」

2年半経ってついに営業免許が下りる。                          (1974年10月慎重だった大蔵省が認可)                           「時間がかかった一因は、米国と違い日本では死亡保険のないものは生命保険ではないという考えが常識で、役人は米国の思考に合わせることはできなかったのです。そこで、がん保険に死亡保険をつけて申請書を再提出しました。ついに大蔵省も『日本の生保に無い分野で消費者のプラスになることは認めよう』と前進してくれたのです。粘り強く交渉したことで組織を超えて人間同士の信頼を得れました」

米国とは違って日本では医者が患者にがん告知を躊躇する社会、保険事業が成り立つはずがなかった。官僚は前例主義という役人の常識から外れてリスクを取ることはありえなかった。                いずれも大竹のほとばしる情熱と忍耐が解きほぐしてしまった。                   (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

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