障害を持つ子達と一緒の教室に
M2 瀬賀孝子 です。
ゼミで障害者雇用の話しを聴くと、私はいつも「あっちゃん」を想い出す。
私は新潟市で生まれ新潟市で育ち、今も新潟市で生きている。両親の
愛情に恵まれず祖父母に育てられた。
学校の授業は退屈だった。先生を小ばかにし、授業中に別の本を読ん
でいることは公認だった。後年、当時の先生に打ち明けられたが「孝子の
教育」には気を遣ったとのこと。私は「あやうい少女」だったようだ。
小学校三年生頃から卒業するまで、常に障害を持つ生徒と机を並べる
ようになり、その子達の面倒をみるようにと先生から指示された。
私が子供の頃は障害を持つ子供達とは同じ教室で一緒に学んでいた。
学年300人中5~6人はいただろうか…..? クラス替えがあると別の傷害
を持つ子が私の隣の席に来た。
「危うい孝子の中に思いやりを育てよう」ということだったのかもしれない。
その頃から私はクラスの中でリーダーシップを取るように変化していった
ようだ。児童会長や生徒会長をやるようになった。
私はいつも知的障害を持つ子供達と一緒だった。他の友達に「孝子ちゃ
んはなんであの子達と遊ぶの?」と言われた。正直を言えば、遠足でも就
学旅行でも、いつでもあの子達の世話係りで、学校行事はちっとも楽しめ
なかった。
中でも知的障害を持つ「あっちゃん」は私を慕い、「たぁ~こ、たぁ~こ」と
常に私の後ろについてきた。
私はあっちゃんが好きだった。大柄でぷくぷく太り、どんな時でもニコニコ
していた。あっちゃんを見ていると優しい気持ちになった。あっちゃんがいじ
められていると、すぐに私はすっ飛んで行っていじめっ子をやっつけたもの
だった。
中学校に進むと、あっちゃんは私の隣からいなくなった、他の障害を持つ
子達もいなくなった。特殊学校に行ったらしいと分かったのはかなり経って
すらだった。
「効率的な教育の推進」ということなのだろうか? 確かに私の関心は
一時は「勉学」に向かった。が、すぐに授業に退屈し始めた。
教育の中に「経営の論理の一つである効率の論理」を持ち込むことには
反対だ。少なくとも、小・中学校は一緒の教室で学ぶのが良いと考える。
瀬賀さん
私は3歳で両親が離婚しました。
30歳の時に研修で分かりました。
母に育てられましたが、母は父の悪口は一言も言いませんでした。
母が悪口を日々、胃っていたら、情緒不安定になり障がい者となっていた可能性があったのです。生まれつきだけでなく、両親の教育も大切だと思います。
知野 進一郎
瀬賀さん
私も小学、中学時代は、障がい者の方が同じクラスにおりました。
途中から、養護学校に転校されました。
さびしい気持ちになりました。
また子供心に、なんかおかしい!
と、思ったものでした。