兵庫県西宮市甲陽園のケーキハウス「ツマガリ」の津曲社長の登壇だ!
あの美味しさは貧しい過去にある。
兵庫県西宮市甲陽園のケーキハウス「ツマガリ」の津曲社長の登壇だ!
例会の案内の後に津曲社長の講演録を掲載する。
本日は前半部分。ツマガリを立ち上げたとき、非価格の塊だ。
前半だけでも長いが勇気をもらう。
日時:8月1日(火)13:30〜17:00
◆人を大切にする経営学会 関西支部第3回例会◆
場所:人を大切にする経営学会関西支部(三和建設株式会社内)
大阪府大阪市淀川区木川西2丁目2番5号
阪急十三駅下車 徒歩7分/地下鉄御堂筋線 西中島南方駅 徒歩9分
内容:
【講演1】 13:40-14:30「利益が上がれば必ずしもいい会社とは言えない」
法政大学大学院 教授 坂本 光司氏
【講演2】 14:45-15:35「今でも変わらず守り続けている3つの教え」
ケーキハウス ツマガリ 製菓技術者 津曲 孝氏
【講演3】 15:40-16:30「社員は選んだ家族・日本一の感動企業を目指す」
株式会社ベル 代表取締役 奥 斗志雄氏
【その他】16:30-16:50 質疑応答(17:00終了)
参加費: 会員・学生 無料
非会員 1,000円
懇親会参加費 3,000円
◆懇親会◆
日 時: 2017年8月1日(火)17:30〜19:30
会 場: 近隣のお店での開催を予定しております
参加費: 3,000円
◆申込み方法◆
下記URLからお申し込みください。
https://ws.formzu.net/fgen/S8597646/
講演内容
オンリーワンを目指して-こだわりの経営戦略-「キーワードは人間味~小さなお店の大きなブランド戦略」神戸市産業振興財団主催講演会より
この講演録は、2001年2月に神戸市産業振興財団の主催によって行われた講演会での内容を要約したものです。
体力勝負の日々
ツマガリのケーキ
お菓子屋のお話をする前に、多少、自分の人生観をお話しないといけませんので、僕がお菓子屋になった動機を少しお話します。
僕は南九州の都井岬のもっと南で生まれました。今でこそ風光明媚で素晴らしいと言われますが、昔は寒村と言われ村全部が貧しい、そんなところで育ちました。
家庭環境が非常に悪くて、早く社会に出て家族に仕送りをしなければいけないという使命を与えられていたんです。
すでに両親はいなかったので、うちの婆さんに聞くと、僕には鉄道員になって機関車に乗ったり、修理の仕事をさせたかったようです。
学校の先生にどこか就職先はないかと相談して、東京のある運送会社の荷役仕事が、社会に出て初めての仕事になりました。24トンのトラックに荷物を積み込む仕事で、1年間やりました。
ものすごく良かったのは、1年間身体を鍛えてもらったことです。
人生の試練を神様が与えて下さったんだなと、いま思えば感謝しています。
仕事に就くことができましたが、下請けの下請けの下請けの荷役仕事だったもんで、米びつのご飯を空っぽになるまで食べました。
九州なもんですから、その時はじめて納豆を食べました。糸を引く納豆を初めて食べて、何を食べさすのかと思ったんですが、お腹が空いてるから何でも食べました。
そうやって1年間たって、お陰さまでパワーが付いたんですが、毎日毎日荷物を運んでいるうちに疑問に思ってきました。
それで「何かいい仕事はないかな」と、その次に入れてもらったのが自動車の修理工です。
相談相手がトラックの運転手しかいなかったのでね、赤羽の板金工場だったんです。
でも、困ったことに全然言葉が通じなくて、理解ができないんです。
僕は九州の訛りがきついんですが、東北の人達は東北弁を喋るもんでね。
ズーズー弁と九州弁ですから。それでこの人たちと一緒に仕事をするのは大変だなと思って、16歳のときに友達のお母さんが働いていた泉佐野の紡績会社に頼んで入れてもらったんです。
そこでも荷物運びです。中学校を半分しか行ってないもんだから、漢字を知らんのです。だから字を書くことが苦手で、何にも分かってないんです。
知らないということは恐いことですよね。でも頭を使う才能もないもんですから、体力だけの仕事しかできないんです。
トラックから運んだ綿を機械に放り込む仕事をやりました。
倉庫みたいなところで冷房もなくて、夏は40度ぐらいあって本当に暑いんです。昼の1時から明くる朝の5時まで仕事をしました。
考えてみると、お菓子屋と全然関係がないようですが、関係があるんです。人間は、頭ばっかりが良くても、落ち込んだときはだめです。
私は、体力は人の5倍ぐらいありますから、少々のことは平気です。
オリンピックに行っても負けるのは体力がないからです。パワーがないんです。人をやり込む、投げ込む、打ち込む、酒でも3升ぐらい飲み込むパワー、なんでもやっつけるパワーがないんですよ。
それが足らないとだめだということが勉強になったんです。
お菓子屋さんへ
僕はこの店(ツマガリ本店)をつくるときに、夢があったんです。
人にできん難しいという「しにくい」やつ、「できない」とか、「売りにくい」「やりにくい」「しにくい店」。これをやりたかったんです。
17坪の店ですが、この店の経営で儲けるよりも300人養ったろうかと、今は230人ぐらいですが、一応この店で7億円です。
1店舗では銀座の和光さんに負けないぐらいで日本一やと思ってます。経営コンサルタントの話になると坪効率だとか言いますが、坪効率などありえないと思っています。
その人の脳味噌の効率はあっても、坪効率はないと思うんですね。
その話は一旦置いといて、17歳のときに友達が「お菓子屋にならんか、洋菓子屋に」と言われて。洋菓子というのはわからんから断ったんです。
シュークリームも食べたことがない、デコレーションも見たことがない。田舎から出てきたもんですから、下駄履きの田舎ですから、駄菓子の兵六餅しか知らないんです。
かるかんのような鹿児島のふくれ菓子しか食べたことがないから断ったんです。でも明るくて、元気がよくて、単純で、面白くて、はしゃぐから、それで僕を呼びに来たんです。
「堪忍してください」と言ってたんです。それにフランス語を千語以上知ってなければいけないと脅かすんですから。日本語の漢字もろくに知らない、まだ共通弁が喋れないときですから。
僕は困ったんですが、先輩が無理やり渋谷に連れていって。渋谷の高架下で、これから面接に行くわけやから髪を整えてと、10分でバリカンで頭を羊みたいに裸にされて、それで面接に行ったんです。
元気だけはよかったもんですから、直ぐに採用されて入れてもらったんです。
それも運がよかった。最初に頭を使わない仕事で身体を鍛える仕事をやって、その次にお菓子屋さん。
それも日本洋菓子連合会の会長さんのお店(ヒサモト洋菓子店)ですから、日本全国から素晴らしい人達が、と言うかぼんぼん達が勉強に来ている。
そこに毛並みの全然違う私がヒョコッと来た。菓子屋の「か」の字も知らん奴が。
よろしくお願いしますと服を着て入ったら、最初は追い回しの仕事。「あれ取って来い」「これ取って来い」と言って、仕事の段取りは少しも教えてもらえないんです。
「ゴムへら持ってこい」と言われても、それが何なのか知らないんで、「そこの、それや」と言うんですが、わからずに手渡すと、「この馬鹿たれ」と言われる。次に「おたま持って来い」と言われて、僕も困り果ててしまいました。
それで手帳に「ゴムヘら」「おたま」と一つずつ絵を描いてメモしていきました。すると意地悪な奴がいて、その手帳を取り上げて笑うわけですよ。
皆はすでに技術を学んでいるわけですから。でも頭でっかちなんです。僕の息子も頭でっかちで、フランスの学校にも行き、どこそこに行き、いざ鼻血が出るような仕事をしたら、「でさない」とか「苦しい」とか言うんです。
僕は体力だけは鍛えていますから、遮二無二やるだけです。体力だけはあるわけですから、どんな仕事でも平気。
するとまた意地悪な奴がおって、大糖という砂糖があって、地べたに並べてるんです。一袋が30キロあるものを3袋担いで来いと言われて。
何とか担いで工場の中をウロウロして下ろす。身体中がガタガタして、手が震えましたが、体力だけはありました。
鉄板もって来いと言われたら持っていく。鉄板を磨けと言われたら、ゴシゴシ、ゴシゴシ磨いて。お陰さんで、ボクシングのチャンピオンになるぐらい磨きました。ジャブ、ジャブ、ジャブと繰り返すうちに、お陰でハードパンチャーになりました。菓子屋になるよりもボクサーになった方がお金になるかも知れんと、毎日10キロ走ってボクシングをやりました。
ファイティング原田の時代ですから、身体を鍛えて一旗上げてやろうと思ったこともありました。しかし、世の中には凄い奴がいて、運動神経がよくて、そいつに半殺しの目にあってやめました。
ボクシングのチャンピオンになってもなかなか長続きはしませんが、菓子屋は70歳になってもやれますから。お菓子屋を紹介してくれたその先輩に感謝しています。
その先輩が独立して、「俺が失敗するかも知れんから、しっかりと覚えときなさい」と言われたんですが、その先輩は2回失敗した。なんで、ポロクソに言われた僕が成功したのかな。振り返ると、技術があるだけではだめなんです。
両親がいなかったから婆さんに言われたんです。オナゴを大事にしなさい。その次にヒトを大事にしなさい。もう一つは一生懸命仕事をしろ、と。3つの教えを受けたんです。
ですから、ヒサモト洋菓子店に入社するときに、一つの仕事が片づいたら「次は何をやったらよろしいでしょうか」と言えと教わった。それ以外は何にも言わなくてもいい。そしたら次々と仕事がまわってくるからと。
チャンピオンに
4年間一生懸命やりました。当直が順番に回ってくるんですが、当直が友達の番になると「津曲君、当直をしてくれたまえ」と、皆に頼まれるんですよ。
夜中の12時に各部所をチェックして廻って、備考欄に「今日はどこどこに煙草の吸殻が落ちていた」と書き込むわけです。
お陰で2回ほど火事を発見しました。冷蔵庫のコンプレッサーのベルトが空回りして、火事になりかけたのを防いでいます。でも、その会社は後々なくなりました。
僕が働いていた頃は最高の材料を使っていました。
大学を出た息子さんが後を継がれたときに、何故か知りませんが、美味しくない材料を仕入れて。フレッシュバターを使っていたのにマーガリンに変えてしまった。
最高の生クリームを使っていたのにトッピングの生クリームに。形は生ケーキでしたが、味は全然違うものになって、最後にはお客さんがいなくなったんです。
大学を出てあまり頭で計算ばかりすると会社は恐い。計算が先にあってお客さんを喜ばせることをしない。自分のことばかりで、お客様のことを考えることを忘れているわけですから。
僕はそこで4年間働いて一生懸命やった。
僕も次のことにトライしたいと思ったときに、九州の先輩が大阪に創業して8年目ぐらいの会社(エーデルワイス)がある、社長も30歳チョットだからどうやと。
僕も若かったので、入れていただいたんです。
それが今の嫁さんと結婚するキッカケになったんです。
そこで働いたときに勉強になったのは、皆、夜中の3時まで勉強してるんです。
デコレーションの勉強ですね。僕はあらためてこの人たちは凄いなと。毎日3時まで練習している。
「お前もコンテストに出ろ」と言われて、1週間ほど練習して出たんですが、さすがに練習不足ですからビリでした。
中には1位を取った人もいます。でもコンテストが終わると、その次の日からバタッと練習をしないんです。ということは、コンテストの期間中だけ勉強してたんです。
僕はビリやったんですが、分からないなりにも悔しかった。
そこで「何か一番になる方法はないですか」と社長に聞いたら、365日一年間、一生懸命にデコレーションを描いて、今日描いたやつを写真に撮り、次の日も写真に撮って、365日後の写真と最初のを比べてみてみろ。
全然違うから、別人になるからと言われたんです。
それで1年後にデコレーションのコンテストに出たら、チャンピオンになったんです。
チャンピオンというのは気持ちがよかったですね。学校時代は職員室に立たされていた者が、表彰状を初めていただいて感動して、来年も取りたいなと思うようになってきたんです。
それまで、こうして喋るのは下手だったんです。口ごもって赤面症で。この世で何が一番大事かなと思うと、宗教も大切ですが、自分自身に自信を付けるのが一番いいみたいですね。
それと自己暗示をかけるというんですか。「凄いんだ」と、「凄い」「凄い」「凄い」と。目が覚めると立派な男になっているとか、やたらといい方にとるんです。コンテストでチャンピオンになろうと思ったら、自分に自己暗示をかけないと。自分がメンタル面で潰れて、気が小さくなって手が震えると、どんなに腕がよくてもできません。手が震えると描けません。
僕は震えがとまる方法を研究しました。人間はあがると手が震えます。腰が抜けるぐらい震えます。そこでメンタルを勉強しました。あがらない方法は、馬鹿ができるよう恥をかくことやな。
優勝したもんやから、皆が乗せるんですよ。優勝カップにビールをついで3リットル、大ビンで3~4本を、一気一気と言うもんだから、分からずに僕も飲んでしもうた。
どうなったと思います、商売とは関係ありませんが、10メートルぐらいビールが飛びます。初めて知りました。ビールを3リットルー気に飲んでも酔いません。酔う前に戻します。胃の中で火山が爆発したみたいに、ピューと飛びます(笑)。
海外での修行
入社してから2~3年たったとき、チャンピオンを連続して取っているときに、「お前、ヨーロッパに行かんか」と言われたんです。
僕が入ったときには、先輩が90人ぐらいいたんですが、僕は漢字も知らんのに、「英語の勉強は無理ですよ」と言いました。
でも、よくよく考えるとスイスという国は英語を使わんのです。ドイツ語だったんです。ドイツ語のABCも知らないのに行ったんですが、でもそこで活躍したのがジェスチャーなんです。
身振りでどれだけわかるか、効き目があります。日本語だけでジェスチャーするんです。
レストランに行ってニワトリの真似をして「コケコッコー」と言うと、これもドイツ語とは違うんです。
牛の鳴き声も「モーモー」とは違う。海老固めをして「海老」を示したりして。するとレストランの隣の人が喜んで喜んで、仲間になろうとビールを飲ましてくれるんです。とうとう朝まで飲まされて、でも言葉は全然通じんのですよ。
結局ね、馬鹿ができると喜んでくれるんやな。(メジャーリーグに挑戦した)新庄はできるんですよ。彼もアーウー言うてるだけで、エネルギッシュな姿勢だけで頭を使わず身体を使って、飛び込んでいったんです。
当時、僕は配合が書かれへん。ドイツ語というのは難しいのでスペルが書けんのです。手が進まない。とうとう友達に、・・・いうても日本語しか喋れないから友達かどうか分からんのですが・・・切腹の真似をしたんです。
「日本に帰って配合が書けなかったら死ぬんや、どうか助けてくれ」とジェスチャーしたんですよ。書いてくれんかと。そしたら配合の虎の巻を一冊書いてくれました。
偉い男でした。帰ってきてアンテノール(エーデルワイスの別事業部門)という会社をつくったんですが、その配合帳が基礎になりました。真剣勝負で頼んで書いてくれた配合帳が、前の会社アンテノールを助けてくれました。
お菓子の基礎です。
その当時、日本ではフランチャイズの花盛りでしたが、ヨーロッパは、素材がいい、これからの時代は素材だ。日本でも時代が変わる、お菓子も変わる、いい材料を使わないとだめだと言ってアンテノールが生まれたんです。
最初は苦労しました。いい材料を使ってもなかなか売れません。それまでお客様にマーガリンのようなお菓子ばかり食べさせていたから、急にフレッシュバターを使っても分からないんです。
美味しいのか、不味いのかが。和菓子ならわかります。
しかし、洋菓子は、まだ日本の文化として認知されてない。今ようやく日本にも定着して、洋菓子というものが日本の文化の中に溶け込んで、日本人が作った独特なお菓子が少しずつ生まれてきてます。そうなるまでは大変でした。
こういう材料を用意しろと言っても、材料屋さんが持ってないから、材料屋さんから商社に頼むんです。
でも日本の商社というのは凄いですね。商社というのはどんなものでも持って来ますわ。栄枯盛衰の厳しい世の中にあっても、日本の洋菓子が確固たる地盤を築きあげてきたのは、いい材料が入るからです。
いい材料は大事です。いい材料を使いきって美味しいお菓子をつくって、お客様に良心的なものを提供していけば流行ると思います。
売る気迫
アンテノールの時に、最初に神戸の北野町でやったんですが失敗しました。
その後、阪神百貨店の地下に出店しました。原点に帰って良心的なお菓子をつくればいいということで、3,000万円売れる店になったんです。
それが売れ出すと東京に行こうということで、僕は行きたくなかったんですが、のんびりしたかったんですが行きました。
銀座の三越に出しました。そのときは大変でした。工場からつくらなければならなかったわけですから。
若い者を引き連れて、30歳前でしたから。特攻隊の精神が好きな社長だったんですかね、成功するまでは帰ってくるなと、鉢巻きをして別れの盃を酌み交わして、総務部長が万歳三唱をしました(笑)。
何も用意せずに行くもんですから、何だか少し不安でした。でもそこで、大学を出た連中や頭のいい連中は先を計算しますが、僕はすぐにつくれると簡単に思ってたんで、小さな鞄に着替えを入れて「行ってきます」と。
あんまり仰々しくやると失敗しますよ。着の身着のままで行ったらいいんですよ。まず行くことです。そして行って、工場をつくったんです。
でも何か不安になってきた。深川に富岡八幡という相撲の神さんがあるんですが、そこに行って皆で神頼みがしたくなって、毎朝5時に起きて掃除をしようと言うことになりました。
関西弁を喋る連中が宮司さんに朝の掃除がしたいと言うと、怪訝な顔をされました。皆で竹箒で掃除を始めましたが1週間でやめました。皆、起きられなくて、1週間でやめました。
一生懸命にやって2週間後に銀座に出店しました。僕らは田舎者ですから、俺たちも銀座の顔になろうと、銀座の洋菓子の店を見て廻って真似をしたんです。
銀座界隈の人たちが買いそうな1個800円や600円の洋菓子をつくったんですが売れない。東京は田舎の人の集まりかなと思いましたよ。
売れないもんですから。百貨店の課長が来て、「今日はいくら売れた」と聞くんです。20万円ですと言うと、「たったそれだけか」と。
それだけかと言われた時に、「課長ちょっと、今日20万円でしょう。200万円に簡単にできるんです。ただしないだけ」と思わず言ってしまったんです。簡単にできるけど、どういう形でしようかと今、考えているんですよと。
さらに「1週間後には20万円の3倍といきましょう」と。そう課長さんに言った手前、何とかせなあかんなと。そこで考えました。
それで「おい明日、エクレアを5,000個焼いてくれんかな」と言ったら、何か注文が入ったんですかと言うから、「いや、入らん」と。工場長が「売れんかったら、どうするんですか」と。
「全部、俺が食べるわ」と言うと「分かりました」。それで「みんな持って来い、5,000個みんな持ってこい」と言ったら、そしたら翌日持ってきました。
チーフに「甲斐甲斐しく詰めろ」、ショーケースに全部並べて、「売れんでもいいから並べろ」と。
俺がお客を呼び込むから、30人ぐらい並ぶようにするから、女の子には「ありがとうございました」と、のべつ喋ってろと言ったんです。
そうすると、端から見ると売れたように見えるから。マイクを使うと周りから苦情がくると言われたんですが、「構うか」と賑やかにやると、お客が並び始めたんです。
その時思いました。「売る気がないから並ばんのや」、「やる気がないから売れんのや」。「売れない」のじゃなくて「売らない」のやと。その日に60万円いきました。そして1年間で10億円売りました。やはり「売る気」ですわ。
渋谷販売合戦
売れるようになると「うちにも出店してもらえんでしょうか」という話がくる。また困るんです。
本社の社長がすぐに飛びつくんです。話しが来たときには飛びついたらいかん。あの手この手で必死でやってるのに、直ぐにOK出すんや。「東武百貨店に」と社長が言うから、分かりました、じゃ段取りしましょうかと。
その他に管理部長が、渋谷に東横ののれん街というのがあって、そこでの実演販売を受けたというから、「段取りはできてるの」と聞くと、ショーケースはみんな百貨店から借りて、経費はゼロだと言うんです。
ショーケースも借りられるんやったら「そりゃよかったですね」と。
そして行って現場をふと見たら肉のショーケースなんです。電気はぶらさがってる。ステンレスも錆びてる。ステンレスが錆びるというのは、よっぽど塩分にやられてるんですよ。
匂いもする、臭い。「ボケ!いくらなんでも肉を売るショーケースが使えるか」と。とうとう僕も頭にきたけれど、気を取り直して、屋上に行ってカッティングテープで補修してから並べたんです。
横には松宮(当時社長)さんのモロゾフ、当時、飛ぶ鳥落とす勢いで行くとこ行くとこ勝ち組。こちらは新参組で名前も売れてない。
こちらは5尺のケースをいただいた。向こうは15尺、20尺のケース。こっちはレジもなし。「レジが欲しいのですが」と言うと、モロゾフさんの横のレジを借りなさいと。「どうしてですか」と聞くと、「どうせ売れないやろうから」と。
分かりました。よし何とか頑張らないかんなと、僕も気合が入りました。伝馬船で軍艦をやっつける思いでした。僕が喋りまくって、女の子2人に売らせたんです。
「僕の話を聞いてください。はるばる神戸から来ました」九州弁の神戸弁です。「寝ないでつくったんです。美味しいから、どうぞ味見をしてください」と、客引きをしたんですよ。
最初の日には20万円売りました。次の日が40万円、そして60万円、100万円、最終日が150万円と、全部で530万円売ったんです。
そうするとレジから文句を言ってくるんですね。「レジ係はお宅の社員と違う」と。でも、レジを貰っていないわけですから、百貨店の部長が「そうしろ」と言ったわけですから。人件費が浮きました。
もう一方の側は自由が丘のトップスというお菓子屋さんで小さかったから、反対側のモロゾフの売り場を取り囲んでお客さんを並ばせました。
すると「いい加減にしろ」と言ってきたので、「お宅もお客さんを並ばしてくてださい。僕も頑張りますから」と言って、頑張りましょう、一緒に盛り上げようとお客さんを並ばせたんです。
僕の話が面白いから、お客さんが1,000円で「空箱を買う」と言うんです。
東京の人はオッチョコチョイやから、「中身はいらないんですか」と言うと、君の話しを聞いただけで空箱を買う、というわけ。とうとう斜め向かいの蒲鉾屋の紀文も気合が入ってきて、3日目から喋りのうまい奴を連れてきた。
「紀文の蒲鉾を気分よく買いましょう」と(笑)。
そして甲陽園へ
ツマガリ社長と家族
東京の出店を軌道に乗せてから大阪に帰ってきたんです。そこで勉強になったのは、商売の根源であるパワーが大事ということなんです。
気質も大事ですが、パワーがないとダメ。エネルギーがないと、やっつけるパワーがないとだめです。熱心にやれば、売れないものでも売れるんです。やる気が大事ですね。このときが35歳です。
会社(アンテノール)をまだまだ大きくしていかなと思っていたんですが、嫁さんがお菓子屋の商売をしようと言うんです。
社員が300人おるわけですから、なかなか決心がつかなかったんですが、娘が喘息気味で調子が悪かったもんですから、残りの人生はお前たちのために頑張るわと。人生を遊びで暮らそうかなと思って。
そのとき甲陽園に、たまたま連れていってくれたんですが、それが運なんですね。
店を決めるとき、この場所がどうの、効率がどうの、売れないだの、考えたらおしまい。
迷ったらおしまい。でも「やる」とは言わない、駆け引きがあるから。不動産屋さんが「先客が5人おるんです」と言うんですよ。
まだ柱だけで見たら洞穴。階段が9段下がっている。坂の道からの9段ですよ。それが借りたいという先客がおると言うんです。
こんな所にまた珍しい人がいるもんだなと。こんな洞穴に敷金が1,800万円なんです。
僕の資本金が敷金で全部とんでしまうなと。それで先客に譲りますわと言ったんです。先客に欲しい人がいるんだったらお譲りしますと。
そうしたら「いや待ってくれ」と言うんです。「でもパン屋さんか何か知らないが、人を押し退けて取りたくない」と。
すると今度は取ってくれと言うんです。そして敷金はいくらでもいいと言うんです。1,500万円と言うと、「はいそれで」というわけ。
そこで手付金をくれと言うんです。持ってないのに、あるだけでいいからと。そこで2~3万円手渡すと決まってしまったんです。
その場所に友達を連れてきたら慰めてくれるんです。「津曲君の元気があったら、5年後には20万円いくかも知れん」と。「君はエネルギーとお客様を喜ばせる技術は待ってる。
だけどこの街はお菓子やさんだらけなんや、苦楽園、芦屋と。」そう言われて、僕もクリスマスに見に来たんです。するとシーンとしてるんです。これは難しいなと思ったけど、もう工事にとり掛かっている。
デザインの先生に「ここはデザインしやすいですか」と聞くと、デザインしやすいから面白いと言うんです。
それで設計図をみたら、僕の仕事場が1坪なんですよ。17坪やから16坪を喫茶にしているわけ。「先生、僕は菓子屋なんや。喫茶はいらないんや」と。
20年間、菓子屋一筋で来たんや。その先生、僕のパワーを知らないんや。「津曲君、ここは売れないんや。俺がよく知ってる。この上に住んでいるんやから」と。
なんであちこちから借金してやっているのに、先生に頭を下げないかんのかな。先生が全然、言うことを聞いてくれないんや。
「デザインは任せますから、厨房は大きくしてください」と言ったら、「あかん」言うんです。
オーブンは玩具のオーブンや。「でっかい電気釜が欲しい」と言うたら、「これで充分や」と。家庭用のチンというやつ。僕にどこかの喫茶店のマスターをして欲しいみたいなんや。
それで、絶対に10万円以上は売上がいかんと言うんです。コーヒーの売り上げでいきなさいと。
そして付き合っていた公認会計士が、従業員は一人も入れたらあかんと言う。マイナスばっかり。経営診断してくれて坪効率から計算すると、「あんたが作って、奥さんが売る」。従業員は奥さんだけと。
今まで300人の従業員に「社長」「社長」と言われていたのに、もうやめた。
それで製菓技術者という名刺にしたんです。社長は何人も従業員がいて、はじめて社長やから、それ以来、製菓技術者にしたんです。
店を始めると案の定、はじめは8万か9万円のスタートでした。肩に力を入れ気合を入れてやりました。
僕もお菓子をつくりながら喋ると唾が飛ぶから、アルバイトを雇って「お前は俺の影法師になれ」と、お菓子をつくっている僕の後ろに立たせて「いらっしゃいませ」と言わせてたんです。
そうこうしているうちに年配の人が店に入ってきて、「おい、耳を貸せ」と言うんです。顔を貸せというのは分かるけど、その人が唐突に「ここはお前、流行る」と言うんです。
まだお客さんがバラバラのときです。あるときは東大寺の金屏風に絵を描く人が、「気」が立っていると言うんです。
一度会いたいと思っていたがと。気合を入れて絵を描きたいが描けないので、会ってくれと。(津曲社長の)顔をみた瞬間にそれがあるから、「俺はついている、何かメラメラと燃えている」と、僕の顔をみて言うんです。
そう言われると、僕も寝とられへん。寝るのは風呂だけ。夜中の12時まで店を開けてました。
すると近所から文句が出て、「いつまで開けてるねん」と。あの時分、通りは真っ暗だったので、女の子が夜道を歩くのに暴漢に遇うたら可哀相やと思って電気をつけてたんです。
変わった奴が「電気を消せ」と、夜中にわざわざ言いにくるんです。そういう人は商売を絶対にしたらあかん。サービス精神がない。
店を12時に閉めると、10キロぐらい走り廻るんです。そんな感じで始めました。
それで(ツマガリから)出ていった奴は、「TVチャンピオン」に出てチャンピオンになった奴が2名います。
テレビに出ても僕に仕込まれているから、よその会社と競っても演芸大会では大概うちがナンバーワン、負けたことがない。
大河ドラマから即興まで何でもOK。「(津曲)社長すみませんけど、即興でリュックサックを背負って裸の大将してくれませんか」と言うと、その瞬間になってしまう。
ランニングシャツ姿で傘さしてにわかづくりの演技がでさるんです。平気でなれるように若い子たちを指導しました。テレビでチャンピオンになると平気でできるんですよ。
そうしてここ(ツマガリ)から出ていった連中は、誰一人落伍者がいない。一人残らず皆成功しています。
何でもできます、裸で踊れるから。何でもはずかしがらないように、気合負けせんようにね。そうやっているうちに店がドンドン伸びてきて、毎年1億円伸びてきたんです。
たいしたことない菓子なんですけど、自慢する菓子でもないですけど、お客さんに喜んでいただいています。いまはこの店(本店)と(神戸・大阪の大丸)百貨店に出しています。
あすに続く。
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