星野仙一。夢。

闘将

星野仙一。夢。

地元、名古屋では追悼の番組、ニュースでは必ず、登場する。

低迷した3チームをリーグ優勝、日本一にした。

ドラゴンズの監督を5年で辞めた。白血病の奥さんの看病、治す為だった。監督に復帰し奥さんが亡くなった。

闘将、どこから来るか。

愛知県豊明市の井上新税理士がシェアしたネット記事を紹介する。

追悼。闘将・星野仙一氏の鉄拳と人情と再建手腕。「この男をつまみ出せ!」
1/7(日) 5:00配信
2017年1月に殿堂入りしたときの星野仙一氏。スピーチはユーモアに溢れていた。

 闘将が逝った。それも余りに突然に。
 楽天広報部の説明によると、2016年7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに膵臓癌であることが判明、昨年12月末より病状が悪化したという。

 「広報!この男をつまみ出せ!」
 いつも、それが星野さん流の挨拶だった。

 「監督!もう僕も50歳になるんですよ」
 「アホは年いかん。俺もそうや!」
  ユーモアも超一流だった。

 星野さんを取材し始めたのは中日での第一次監督時代だった。血気盛んな頃だ。
 容赦なく殴った。コンプライアンスやパワハラがSNS上で大問題にされる現在ならどうなっていたのだろう。ベンチ裏、ロッカーで“生臭い異音”を聞いた人は数知れず。
 “レジェンド”山本昌も殴られた。捕手の中村武志(現韓国起亜タイガースコーチ)は負けた試合では、ほとんど毎日のように鉄拳を食らわされていた。今は、追手門大学の監督をしている小島弘務が血だらけになった口元をタオルで押さえて移動バスに乗り込んだ姿は鮮烈に覚えている。

「逃げるな」。殴られる理由は決まっていた。勝負を逃げての四球や被弾を嫌う。
 躊躇や引きさがっての失敗、無難、怠慢、単純なサインミスなど、次につながらないミスは、どんな小さなものでも許さなかった。
「選手ができないのはコーチの教育が悪いせいだ」
 円陣を組ませ全員の前でコーチまで殴った。
 星野さんの中日監督時代は、時折、球場に報道陣立ち入り禁止の“仙のカーテン”を敷き、広報は「サインプレーの確認のため」と弁明したが、中では血生臭いチームの引き締めが行われていた。

「他のチームの選手と気安くグラウンドで口を聞くな」
 戦闘集団となるべき規律を徹底した。
 「グラウンドは戦場だ」
 
 バッテリー間に“ぶつけろ”のサインも本当にあったようである。

「能力のない人間が生き残るには内角球」が身上だった。それは通算146勝した「投手・星野」が、その晩年、生き残るために使った投球技術だった。

 星野中日の“喧嘩野球”の噂が他チームへと広がると対戦相手は過剰に反応して、しばしば乱闘に発展した。取っ組み合いが始まると自らも走った。
 巨人戦の乱闘では“世界の王監督”に対して拳を突き上げたこともある。
「尊敬する王さんに対して、やっちゃいけないことだけどな。選手は俺の背中を見ている。演技としてもやらなければならない」
 怒ることを「演技だよ」と後日、語ることが多くなった。楽天の監督就任以降は、鉄拳制裁の話も聞かなくなった。だが、若かりし日の半分は演技でなく本気で怒っていたのだと思う。
 
 乱闘でベンチから飛び出るのが遅かった選手がいるとマネージャーに調べさせて目が飛び出るほどの罰金をとった。遅刻や夜の門限破りなどのルール違反、気の抜けたボーンヘッドを許さなかった。注意散漫で逆を突かれ二塁で牽制アウトになった選手からは罰金50万円を取った。

 巨人には異常なまでの闘志を燃やした。ドラフトで巨人に1位指名を約束されていたが反故にされた裏切りが、その発端になっている。現役時代からGマークを見ると目の色を変えた。巨人から歴代6位タイとなる通算35勝を挙げたが、監督になっても打倒巨人の旗印は変わらなかった。

1986年の監督就任直後に、ロッテで浮いた存在だった“3冠王”落合博満と、牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂との1対4の世紀のトレードを実現した。 一番の理由は、決まりかけていた落合の巨人入りを阻止することにあった。

「こだわったのは巨人に行かれたら困るからや」
 
 巨人への怨念は2013年の日本シリーズの楽天の“巨倒劇”でやっと晴れることになる。

 星野さんは繊細に気配りをする人情の人でもあった。
 選手の奥さんの誕生日をマネージャーに調べさせ自宅に花を送る。活躍した選手には監督賞として罰金の倍額を返してやった。高価なロレックスもプレゼントした。裏方さんも大事にした。打たれた投手には必ずリベンジのチャンスを与えた。打てなかった打者もまた使った。 
 それが星野さんの勝負に徹しきれない“優しさ”だった。

 引退した選手や退任するコーチの再就職先の面倒も見た。直接、相手チームのフロントや監督に電話をかけて「お願いできませんか」と頭を下げた。顔の効くメディアや世話になっているスポンサー企業にも紹介した。かつて「上司にしたい男ナンバーワン」に選ばれた“男・星野”の人望と愛される理由は、そこにあった。
 
 親友の山本浩二が、侍ジャパンの代表監督になったときは、自らが監督時代にドラフト1位指名して育てた立浪和義のコーチ入りをお願いした。“悪い噂”が中日でのユニホーム復帰の障害になっていた立浪にジャパンのユニホームを着させてイメージを回復させてやりたいとの思いだった。

「弱いチームを強くすることが監督としてのロマンなんや」
 
 低迷した中日を再建し、名将、野村克也を呼んでも最下位を抜け出せなかった阪神も2年で優勝させた。そして、球団創設以来、一度も優勝できなかった楽天を日本一にした。

「監督として俺はなんもしとらんよ。全部コーチがやってくれているだけや」

 あれは甲子園での阪神-中日戦の試合前だった。

 ビジターの監督室に入れてもらい、マッサージ中の星野監督と話をしていると、故・島野育夫コーチが部屋をノックした。島野コーチは、その日の打順を読み上げた。
「これでいいでしょうか」。星野監督は、うなずいただけだった。

 故・島野コーチが監督室を去ると星野監督は言った。

「わかったやろ。なんもせんでええのよ。俺がやる仕事はここに来る前やから」

 名参謀としてタッグを組んできた故・島野コーチを始めとした信頼すべきエキスパートが星野軍団には揃っていた。星野さんは、呼んだコーチを信頼して権限を与えた。すると、そこに責任が生まれる。
 「俺の仕事はここに来る前にある」
 “優勝請負人”“再建屋”と言われた星野さんの本当の手腕は、事実上のGMとしての仕事だった。

「空気を変える。血を入れ替える」

 中日時代には落合に象徴されるようなトレードを毎年、やった。中尾孝義と巨人の西本聖とのライバルチーム同士のトレードも常識破りだった。翌年、西本は最多勝、中尾も巨人で活躍した。

 阪神時代には、20人以上も選手を入れ替えた。手抜き、個人主義、負け慣れのベテラン、不満分子を気嫌いして一掃した。

逆に、その条件の対極にある選手を好み、金本和憲をFAでとり、故・伊良部秀輝をアメリカから凱旋させ、下柳剛を含む大型トレードもやった。
 チーム再建に賭ける熱意で本社の金庫を開けさせた。

 楽天時代も岩村明憲、松井稼頭央を凱旋させ、就任3年目となる2013年にもアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤隆という3人のメジャーリーガーを獲得するという大補強を打った。この年、悲願の日本一を果たすが、24連勝した田中将大や開幕投手を務めた則本昂大ら生え抜きの選手の活躍が目立った。

 監督を退任後に球団副会長に就任してからも、その1年目にBクラスに終わると、得意の情報網を使ってFAで西武からエースの岸孝之を取った。昨季の楽天の優勝争い、クライマックスシリーズ進出の裏にも“星野GM”の手腕が見え隠れしていた。

 強面だった。カメラのフラッシュが大嫌いで、いつのまにか試合後の囲み会見の写真を撮ることがNGとなった。たまに暗黙のルールを知らないカメラマンがきてパシャとシャッターを切ると、その瞬間に「やめや!」の一言で会見を打ち切った。試合に負けて頭に血が上ると、ぶらさがり取材の記者を「邪魔や」と突き飛ばした。

 しかしメディアを大事にした。

「おまえらも戦力なんや」が口癖だった。

 沖縄キャンプでは、記者を引き連れ、宿舎から球場まで1時間のウォーキング。雑談しながらのスキンシップだった。遠征先では“お茶会”が恒例になった。東京では、旧赤坂プリンスホテルの2階にあったコーヒーハウスで「星野スペシャル特製オムライス」をふるまい雑談に応じた。野球の話はあまりしなかった。

日経新聞とニューズウィークやタイムズの日本語版を熟読して、政治経済だけでなく、時事ネタが豊富にあった。マスコミ懐柔との批判もあったが、星野さんは、そういう場で愚痴やぼやきの類は一切しなかった。“カリスマ星野”が“人間星野”の姿を見せることで記者との距離間が縮まり、オフレコとオンレコの線を引くと同時に、ありがちな「敵」と「味方」を作らず、メディアの発信力をうまく利用した。

筆者にも忘れられない思い出がある。
 スポーツ新聞の記者時代、第一次政権の最終年となる1991年の終盤に「星野続投」と打った。だが、星野監督の退任が決まっていて“特オチ”した。翌朝、一番で星野さんの自宅へうかがった。

 すでに中日スポーツの星野番記者がリビングに上がりこんでいた。進退については、「色々と新聞が書いているなあ」と言っただけで、それ以上、触れなかった。しばらくして星野さんは、もう出かけるという。何も収穫のないまま退散となりかけたときに星野さんが言った。

「おまえは残っとけ」。中日スポーツの記者を帰らせ、愛車だったベンツの助手席に乗せてもらった。

「おまえはアホやな。3年も優勝を逃して来年も監督をできるわけがないやろ」

 辞任だった。

「今から加藤オーナーに会いにいく。おまえはビルの近くでわからないようにして降りろ。それまでに聞きたいことを聞け。全部話してやる。いいように記事にせえや」
 
 その車中での一問一答を記事にした。退団を“特オチ”したが、コメントをひとつも出していなかった星野さんが自らの辞任と、その理由を語ったインタビュー記事は、ほんの少しだがミスを挽回する内容になった。
 星野さんの人情だった。
 以来、顔を合わせるたびに何十年も「おまえは俺に借りがあるやろ」とつつかれた。

 阪神を優勝に導きながら健康上の理由で電撃退任した際には、誰一人特オチの記者がでないように事前に番記者に伝え「シリーズが終わったら書け」と語っていたという。

 星野さんはサインを求められると達筆な筆を使い「夢」と書いた。

 北京五輪で代表監督として失敗。コミッショナーに就任して日本のプロ野球を大改革しようという野望は挫折した。しかし、星野さんが抱く「夢」が消えることはなかった。

 野球殿堂入りが決まったちょうど1年前に「今は楽天の副会長だが、楽天だけにとらわれず、これからは少年野球、アマチュアも含めて野球界全体のことを考えて行動したい。底辺を拡大していかないと野球界は破滅してしまう」という話を熱弁した。

「全国の子供が野球をできる環境を整わせないといけないよな」

 星野さんが目を向けていたのは野球界の未来だった。
 70歳。燃える男・星野仙一の早すぎる永眠。その思い出を辿ると涙が溢れた。

 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社) 

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