飯塚 毅先生との出会い 2

つづき)
最初の師匠・故・飯塚毅先生との出会い。
色々教えていただいた。

30歳前後から何名もの方からコンサルタントになったら良いと言われたが、まったく考えなかった。
飯塚先生の度量が大きかったからだと思う。

1点目
平成52年4月にTKCに入社し、2年目から3年目にかけて、TKC未入会の会計事務所を訪問して会員になっていただく13名の部隊ができた。
箱根に集合し5日間の研修に参加。最終日に当時は社長の飯塚毅先生の話を聴く。
何点かあったが、下手なサラリーマン根性は捨てろ、サラリーマンだとお客様に遠慮をして物事が言えなくなるからだダメだと言われた。

最後に飯塚社長に抱負を述べた。13名中、同期と私だけの2名が一番経験がない。「職業会計人のために全力を懸けます。〇〇(同期の名前)、お前には負けないぞ」。参加者からは拍手をいだいた。飯塚社長は「ご立派。だけど君は間違っている」と一喝された。気迫は大事だが、コツコツやった者が最後は良い」というようなことを言われた。
田坂塾の田坂広志先生も「会った方の力量は分かる」と言われる。私の心の中を将来にわたって見破っていると感じた。

2点目
飯塚事件後、当時の国税庁長官の免官以外は賠償請求をしなかった点だ。
法然上人が幼少の時にお父さんが殺されたが法然には「敵(かたき)はとるな。敵をとるとその繰り返しになってしまう」と言われたと言う。飯塚先生は禅の師匠・植木義雄老師に相談してのことだ。
ここ数年、分かったことだが、主語が抜けると言う。「◇◇の野郎、死んでしまえ」「△△覚えてろ」、、。主語が抜けるので「死んでしまえ」「覚えてろ」は自分に「死ね」「覚えてろ」となり。自らを傷つける恐ろしさがあるのだ。
「目には目を歯には歯を」の世界観では永遠に平和は訪れないと思う。

3点目
平成2年の長野センター長の時、松本市でTKC関信会の夏期大学が開催された。
飯塚毅ご夫妻を松本駅にお送りした時。発車時刻までに時間があった。構内に花が販売されていて奥様にプレゼントされる微笑ましさ。
奥様から「知野さん、天下国家を論じ、和書・独・英語等のどこに何が書いてある覚えているが、孫の名前はよく忘れるんですよ」。
奥様の一言はほっとした。「人間って、役割が違うだけで天から与えられているのは同じだと感じた。

修士2年の知野 進一郎です。

ご参考)
飯塚事件、昭和39年のTKCの創業の前に発生した事件です。
昭和38年11月19日、飯塚毅会計事務所とその関与先69社は関信国税局から一斉に未曾有の税務調査を受ける。いわゆる「飯塚事件」の勃発である。飯塚毅税理士の孤立無援の長い闘いが始まる。やがて事件は国会でも取り上げられる。職員4名が逮捕・起訴される。約6年の裁判を経て昭和45年11月全員無罪の判決が下る。
高杉良の「不撓不屈」の小説や同タイトルのDVDがあるので興味ある方は見て欲しい。インターネットで「飯塚毅アーカーブ」も参考になります。飯塚先生の著書・DVDはTKC出版のHPから購入することもできます。

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「飯塚 毅先生との出会い 2」への2件のフィードバック

  1. 知野さん
    ありがとうございます
    読ませていただいて、私も奥様のくだりで、ホッといたしました。