出光 佐三

面白い、1年前の投稿から
今は佐三^ – ^

今、上映されている「杉原千畝 スギハラチウネ」。
日本人に勇気を与える人物だ。

出光 佐三(いでみつ さぞう)もそうだ。
「年輪経営」の長野県伊那市の伊那食品工業の塚越会長もバイブルとした。

チウネと同じく、私が知らないことも掲載されているウィキペディアを主に紹介する。

佐三に関しては色々な本が出ている。

1885年8月22日生、1981年3月7日に亡くなる。97歳、当時としては凄い長生きだ、大宇宙は長い生命を与えたのだろう。
日本の実業家・石油エンジニア。石油元売会社出光興産の創業者。

弟の出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。
長男の出光昭介は1981年6月から1993年5月まで第5代社長。佐三より長生きだ。
また、九州地方でガソリンスタンドを展開する新出光(それまでは資本関係がなかったが、2005年に出光本体への出資が決定)の創業者・出光弘とも兄弟関係にあった。
新出光社長の出光芳秀は甥で、その妻が推理作家の夏樹静子である。左三は故郷である福岡県の宗像大社を厚く信仰していた事で知られる。

佐三
1885年(明治18年)8月22日 福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市)に生まれる。
父は藍問屋を営む出光藤六、母は千代。

1901年(明治34年) 福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。

1905年(明治38年) 神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。

1909年(明治42年) 同校卒業。卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。当時同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが普通だったが、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店。学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と非難を受ける。

1911年(明治44年)6月20日 日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三がしていた)から別荘を売却して得た資金8,000円を渡され、満25歳で独立。
その条件が一風変わっていて、「ただやるのだから返さなくていい。利子もいらない。また、事業の報告もしなくてよい。君が好きに使え。ただ、独立を貫徹すること。そうして兄弟仲よくやってくれ。」というものであった。

福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)の特約店として機械油を扱った。

1914年(大正3年) 南満州鉄道に車軸油の納入成功。
1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。

1923年(大正12年) 関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。
1924年(大正13年) 第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。

明日以降に続く^_^

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