皆さんが住んでいる・出身地の県歌、知っていますか?
皆さんが住んでいる・出身地の県歌、知っていますか?
実り多い法政大学大学院 坂本 光司ゼミの恒例の夏合宿、第1弾、2泊3日の長野県編。
長野県更埴市(現、千曲市)出身で高校卒業まで田舎にいた私。
「伊那食品工業」の「井上 修」社長の講演のヒトコマだ。
「信濃の国」、いまだに小学校と中学高で習うようだ。
「信濃の国」をスマホで検索した際には検索できなかったが、PCで検索すると「長野県」の「信濃の国」を訪ねてが出てきた。
更新日:2017年2月28日
県歌「信濃の国」
〇県政モニターアンケート調査で県歌「信濃の国」に関する調査を実施しました!
平成30年度に県歌制定50周年を迎える「信濃の国」について、県民の認知度等について調査しました。
その結果、約8割の方が「信濃の国」を歌えると答えました。
今後ますます親しみを持っていただくとともに、歌い継いでいただけるような取組を進めてまいります。
調査の詳細は下記をご覧ください。
※※ アンケート調査結果の詳細 ※※ 平成27年度 第2回県政モニターアンケート調査(「信濃の国」の調査は13ページをご覧ください。)
■県歌「信濃の国」について
「信濃の国」は、1899年(明治32年)に長野県師範学校教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌1900年(明治33年)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲しました。
「信濃の国」はもともと信濃教育会(注)が作った唱歌です。
当時は教育の場にも日清戦争の影響が及んでおり、これを心配した同会が戦争とは離れたテーマを教材とすることを目的に長野師範学校の教諭に作成を依頼したもので、「地理歴史唱歌」6作品の中の1つでした。
1900年(明治33年)10月に行われた師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯(今でいえばダンス)に使われたのが、「信濃の国」が初めて披露された場であるといわれています。
その後「信濃の国」は、師範学校の卒業生が県内の学校で生徒に教えたことにより各地に広がり、歳月を経て、親から子へ、子から孫へという形で歌い継がれてきました。
昭和41年に県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、昭和43年5月20日に「信濃の国」が県歌として制定されました。こうして「長野県民のほとんどが歌える」と言われる県歌が誕生したのです。
(注)信濃教育会:現在の公益社団法人信濃教育会。長野県の教育向上を図る目的で設立された、県下の小・中・高・特別支援等学校及び大学の教職員等教員による団体。研修や教育・学術図書の研究などを実施。
知野説明、3月長野県の北の新潟県寄りの地域はまだ雪深いのに南の飯田地域は菜の花等が咲き誇る。長い県だ。いざこざもあったようだ。県民の心を一つにした「信濃の国」でもある。
皆さんのお住まい・出身地の都道府県歌はご存知だすか?
数県、ない所もある。ネットですぐ検索できる。
Uチューブ等で色々な「信濃の国」があるが、私が習ったのは、「信濃の国」斉唱(日本語版、作成:公益社団法人長野青年会議所、歌唱:長野少年少女合唱団(2005年))
下記のURLから拾える。
http://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kensei/gaiyo/shoukai/kenka.html
長野県歌 「信濃の国」
浅井 洌 作詞
北村季春 作曲
一.
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや通し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれ物さわに 万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき
二.
四方(よも)に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳(おんたけのりくらこまがたけ)
浅間は殊(こと)に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川(さいがわ)千曲川(ちくまがわ)
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
三.
木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼い(こがい)の業の打ちひらけ
細きよすがも軽(かろ)からぬ 国の命を繋ぐなり
四.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の棧(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名にたつ姨捨山(おばすてやま)
しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌に詠てぞ伝えたる
五.
旭将軍義仲(よしなか)も 仁科の五郎信盛(のぶもり)も
春台太宰(しゅんだいだざい)先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉(ほまれ)たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽(つき)ず
六.
吾妻はやとし日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山(うすいやま)
穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀(ひい)でたる 国は偉人のある習い
坂本ゼミに学び4年目、かなりの数、「伊那食品工業」さんを投稿してきた。
同社で働いて北信(長野市を中心とする)地域に嫁いで子育てママとなり働くために応募したら、「伊那食品工業さんにお勤めだったのですか、と即採用だった」とのコメントをいただいたことを思い出す。
「井上 修」社長、法政の先輩でもある。長野県、県民の良さを改めて教えていただいた。感謝したい。
ツツジは5月中旬、もみじは10月中旬の同社の旬の写真を井上社長のfacebookの投稿からです。
コメントを残す