法政大学大学院 坂本 光司ゼミの最終ゼミ。

今週の13日土曜日は、

法政大学大学院 坂本 光司ゼミの最終ゼミ。

70歳で退官されるので、本当に最後のゼミになる。

ゲスト講師には、新潟市議の青木学さんを
お招きした。
障がい者なくしては、ないゼミとも言える。

13日が修士論文の提出の最終日でもある。障がい者をテーマにした論文も多い。

点字名刺を使用するゼミ生が多い。

私の名前を点字で読んでいただいた時は涙だった。

そんなゼミ生も出そうだ。

浜松市の六星の斯波理事長にタグをつけさせていただく。そんな方々に働く場を提供している。

青木議員を二つのネットから紹介させていただく。

1.
視覚障害議員
新潟市議の青木学さん「できること考える」
毎日新聞2017年12月27日 21時48分(最終更新 12月28日 00時41分)

常任委員会で点字の資料を読む青木学・新潟市議=新潟市議会で2017年12月15日午前10時2分、藤井達也撮影

都道府県議会と政令指定都市議会を通じて、ただ一人

 全国の都道府県議会と政令指定都市議会を通じてただ一人の視覚障害者の議員が、新潟市議会で活動している。

現在6期目の青木学さん(51)。全盲のベテラン議員は20代で初当選して以来、四半世紀近くバリアフリー社会の実現を訴えている。

<視覚障害元参院議員>国会バリアフリー 議員会館は50点 有料記事 .
<写真付き>モザイク模様の点字ブロック、誰のため? .
<あえて特許は取らず>弱視者の安全と景観を両立した点字ブロック考案 .
<世界も注目>視覚障害者と開発した誘導路 凹凸なく設置簡単 有料記事 .
<弱視者の視力を補強>ARは視覚障がい者をサポートできるか? .

 「LCC(格安航空会社)はサポートの必要な人たちにきちんとした対応ができると、市は確認しているのか」。

15日の市議会常任委員会。新潟空港(新潟市)に来年3月、初めてLCCが就航することに関連して、青木さんは市の担当者に問いかけた。奄美空港(鹿児島県奄美市)で今年6月、別のLCCを利用した車椅子の男性が搭乗する際、階段式のタラップをはうようにして上る事態が起きていたからだ。

 委員会の資料は、市側が点訳して前日に配られる。資料が大量にある場合はデータの提供を受け、自分のパソコンで必要な部分を点字データに変換するほか、画面の文書が読み上げられる音声ソフトを活用し、内容を確認する。

ただ、この日は別の委員の要請で、市側が急きょ数十枚の資料を追加配布。点訳の時間がなく青木さんにも活字の資料が配られた。「他の議員との情報量の違いを感じることや、質問を深められないことはある」。委員会終了後、打ち明けた。

 青木さんは新潟県亀田町(現新潟市江南区)出身で小学6年の時に視力を失った。1995年、社会党(当時)の推薦を受けて28歳で立候補し、初当選。

91~93年に米国の大学院に留学した際、健常者も障害者も分け隔てなく学んでいることに影響を受け、最初の選挙から、当時は今ほど広まっていなかったバリアフリーという言葉を公約に取り入れた。

 当選後、市職員採用試験で点字受験の導入を市に働きかけ、新潟市が政令市に移行した2007年に門戸が開かれた。長らく合格者は出なかったが、14年に全盲の女性が採用された。青木さんは言う。「何ができないかを考えるより、何ができるかを考える。全盲議員にしかできない仕事が必ずある」【堀祐馬】

視覚障害者、全国に8議員
 視覚障害者の議員は現在、国会や都道府県議会にはいないものの、地方議会では新潟市の他に少なくとも、北海道千歳市▽埼玉県川越市▽千葉県柏市▽流山市▽東京都東久留米市▽神奈川県大井町▽高知県香南市--の計7市町議が活動する。

新潟市の青木学市議によると、2000年代の初めごろには全国に15人程度の議員がいたものの各地で市町村合併が進み、合併を機に引退する議員もいて人数は減っているという。
https://mainichi.jp/articles/20171228/k00/00m/040/113000c

2.
http://andonoburo.net/on/3401
報告:第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会  青木学
2015年2月6日
「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)

  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

【講演要旨】
1. 視力を失って
 小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。

見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。

2. 盲学校入学
 中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。

 ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。

 3. 盲学校の外の世界へのあこがれ
 楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。

 そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。

4. 大学進学への挑戦
 1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。

 そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。

教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。

4. アメリカ留学
 卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。

 アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。

大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。

 こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。

5.日本に帰国し市議会へ
 社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。

その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。

 私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。

そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。

6.進む法整備
 国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。

 私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。

その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。

 こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。

【略 歴】
 1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、
     京都外国語大学英米語学科。
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
 2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、
    新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中

  http://www.aokimanabu.com/

【後記】
 青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。
しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。

 目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。

留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。

 幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。

米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。

 青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。

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