NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・信康事件篇

1579年 家康37歳 期待の嫡男に切腹命令 家族より事業を選択する悲痛。

織田信長の娘である篤姫は、今川の血を引く姑の築山殿(瀬名・家康の正室)との折り合いが悪く、夫・信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託しました。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされます。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めました。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求しました。

家康にとって嫡男の信康は期待の星です。信康の勇猛果敢な態度は家康の愛するところです。その信康を信長に糾弾されることは耐え難い苦痛です。

家康は、やむをえず断腸の思いで、信康の処断を決断します。まず築山殿が二俣城(浜松市)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害されました。さらに、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じました。

家康は、信長に命令されたから実行したというより、既に家康自身が信康の武田寄りの姿勢に懸念を抱いていたという解釈が近年では主流です。

この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺されたとする説もあります。

それでも家康は、関ヶ原の戦いの際に、「信康が生きていたならば苦しまずにいたものを」との声を漏らして悔やんでいます。

あなたの跡取り息子が自分と全く逆の事業戦略を考えているとき、どう行動しますか?

武田信玄は、父を追放し、嫡男を殺しています。織田信長は弟を殺しています。豊臣秀吉は腹違いの弟を側近にして優遇しています。

あなたが家康なら、家族と事業の選択を迫られたとき、どうする家康?                 (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

松平信康(勝蓮寺蔵)©︎NHK

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