NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・金ヶ崎の退き口(のきくち)篇
1570年 家康28歳 浅井長政の裏切りで決死の退却 姉川の戦いで挽回
織田信長との同盟も8年が経ちます。この間に信長は、美濃斉藤氏を倒し岐阜城を手に入れ「天下布武」の朱印を使用し天下統一に動き始めます。まずは、岐阜から京都への街道上の近江に領地をもつ浅井長政に妹のお市の方を嫁がせ、織田浅井の同盟関係を結びます。そして、越前朝倉氏に避難していた足利義昭の要請に応じて、京都を占拠していた三好三人衆を追い出し、室町幕府の再興を実現します。
信長は、将軍を支える自分の指示を聞かない越前の朝倉義景の追討を決意します。信長軍は家康軍を先頭にして琵琶湖を北上し、越前の朝倉義景領に侵攻し敦賀の城に攻撃をかけ、金ヶ崎城では朝倉景恒を下します。
敵地を進撃する真っ最中に、「浅井が裏切り、挟み撃ちすべく後方から攻撃してきた」という知らせが飛び込んできます。これに対して信長は、「虚説たるべき」と言って信じません。親戚関係の浅井氏が裏切るなどあり得ないのです。
浅井にとっては、織田は同盟者であるが、朝倉も同盟者でありしかも先祖からの宿縁があります。長政は愛する嫁・お市の方に詫びながら、浅井家として織田軍を攻撃する決断をします。
信長は、浅井裏切りの情報が集まるのを見て、退却命令をだし、まず自分が真っ先に京都へ逃げ帰るべく馬を走らせて脱出します。それを援護すべく最後まで残って朝倉の追撃に対応したのが秀吉(木下藤吉郎)軍です。また、退却命令が届かず最前線で取り残されたのは徳川軍です。
秀吉は家康が戻ってくるのを待ち、しんがり(最後尾)として家康の脱出を助けます。攻撃しながら逃げるという難しい役目を果たしました。途中、敵に包囲された秀吉軍を徳川軍が助けに行く局面もあり、彼らはかろうじて逃げ帰るこ徳川できました。
その半年後に態勢を整えた織田・徳川軍は、浅井の小谷城を攻めます。琵琶湖湖畔の姉川で浅井・朝倉軍と対決し勝利します。
されど、打倒信長を叫ぶ勢力は増え続け、包囲網が形成されていきます。そして、武田信玄が襲い掛かってくるのです。(三方ヶ原篇)
家康にとってこの1年は最も多忙な年でした。居城の浜松から福井滋賀を何度も往復することになったのです。特に金ヶ崎では最前線で戦っているのに信長に放置され敵地に取り残されるのですから、たまったものではありません。
あなたが家康なら、危機から何を学び将来へ何を誓いますか、どうする家康? (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)
金ヶ崎からの信長の退却ルート
コメントを残す