NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・長篠の戦い篇
1575年 家康34歳 天晴れ!鳥居強右衛門 信長も援軍に駆け付ける
1568年、甲斐の武田信玄が今川家の本拠地である駿河の駿府城を攻撃するのに協力し、家康は今川家の遠江の国を攻撃し手にいれました。これにより今川家は今川氏真(26歳)の代で滅びます。
これにより家康は、本拠地を三河国の岡崎城から遠江国の浜松城へと東に寄ります。
この後、信玄は家康との協定を破り、遠江国を攻めたことで、徳川家対武田家の対立が激化します。
1572年、武田信玄がついに打倒信長のため京都に向かって西上作戦を決行します。家康の浜松城に迫りながら、素通りする信玄を追撃したところ、待ち構えていた山県昌景など武田勢から猛攻撃を受け、家康は命からがら浜松城に引きこもります。この三方ヶ原の戦いが、家康の人生で最大の敗北です。
ところが、この戦いの直後に信玄は病死し、西上作戦は中止され、信長と家康の危機は去ります。
長篠城(ながしのじょう)の城主である奥平貞能・貞昌父子は、秘されていた信玄の死を疑い、徳川方に寝返ります。
信玄の息子である武田勝頼(29歳)は遠江の高天神城を奪取し、三河の長篠城を奪回しようと1万5千の兵力で城を包囲します。
長篠城を守る奥平貞昌は、家康に援軍を要請するため、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を使者として放ちます。強右衛門は敵の囲いをすり抜け、家康の下に無事にたどり着きます。そこで、家康のみならず信長も大軍でもって救出に向かう計画を知ります。喜んだ強右衛門はこの知らせを長篠城に届けて味方を励ますため、再び敵の囲いをすり抜けて帰城を試みます。しかし、今度は武田方につかまってしまうのです。
武田勝頼は強右衛門にこう語ります。「お前を磔にして長篠城の者どもに見せしめとする。しかし、その時に『信長殿の援軍は来ない、城を明け渡すべきだ』と叫べ。そうすれば、甲斐国に連れ帰り知行地を与えてやる」と、裏切りを勧めました。
強右衛門は負けを認め、言うことを聞くと承知して、磔を受け入れました。
磔にされた強右衛門は、長篠城の味方に大音声で叫びました。
「おのおの方、信長殿が大軍でもって助けに来られるぞ。あと3日、あと3日を辛抱くだされ」
激怒した武田方は、強右衛門を槍で刺し殺しました。
両軍は、設楽原(したらがはら)で激突します。
織田徳川連合軍は、鉄砲隊を組織し、真っ向から攻め寄せる武田の騎馬隊を撃破。山県昌景、馬場信春、真田信綱、内藤昌豊、土屋昌続など優秀な幹部武将が次々と命を失い、勝頼は失意で退却します。
あなたが家康なら、危機から何を学び将来へ何を誓いますか、どうする家康? (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)
長篠合戦図屏風
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