NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 徳川四天王・酒井忠次

酒井忠次                                           1527-1596年。家康より16歳年上。三河国岡崎出身。

元服後に家康の父の松平広忠に仕えます。家康(竹千代)が今川家の人質に出される時に同行しました。1560年の桶狭間の戦いの後に徳川家の家老となり、永禄6年1563年の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従いました。

1570年の浅井領の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、朝倉軍に突入して火蓋を切りました。1573年の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂と激突し、打ち破っています。1575年の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後の鳶巣山砦からの強襲を敢行。勝頼軍を信長・家康連合軍が鉄砲隊で待ち構える主戦場に引き寄せました。鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出する大功を挙げています。1584年の小牧長久手の戦いで森長可を敗走させるなど、家康の主な戦いには全て参加しています。

三方ヶ原の戦いでは、武田信玄から逆襲を受けた家康が浜松城に逃げ帰った後、大手門を開かせたまま忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方に伏兵を疑わせて攻めずに引き返させた(空城の計)とする「酒井の太鼓」の話は、明治時代になって歌舞伎でも演じられています。

1579年に家康の嫡子・松平信康が母親の築山殿と連携し武田方への裏切りの密告があると織田信長から詰問を受けたとき、家康から弁解の使者に立てられて安土城に赴きました。この際、忠次は信康裏切りを否定せず弁護しなかったため、信康の切腹を防がなかったと言われています。

海老すくい、という踊りが得意であり、重臣であるにもかかわらず諸将の前で踊りを見せ、大いに盛り上げたました。1586年、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露しています。

1585年に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされます。1588に長男の家次に家督を譲って隠居します。1596年京都で死去、享年70。墓は知恩院山腹の墓地内にあります。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

                              

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