NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 小早川秀秋

関ケ原決戦で東軍勝利の決定打となった小早川秀秋の裏切り。

これまでは、優柔不断な秀秋が戦闘中も迷って裏切ったと理解されてました。                  しかし最近の研究で、松尾山に陣をひいた時点で西軍を裏切る覚悟だったと考えられています。

小早川秀秋は、本能寺の変の年に北政所ねねの甥として生まれ、羽柴秀秋としてねねに大切に育てられました。7歳の秀秋はすでに秀吉の後継者として世に知らしめられていました。しかし、豊臣秀頼の誕生により、後継者のいない小早川家の養子となります。朝鮮出兵では総大将に任じられました。結果を出せず減俸処分を秀吉から命じられますが、33万石の現状維持でとりなしてくれたのは家康でした。

上杉氏への会津征伐において、秀秋は出陣を免ぜられ大坂にいました。石田三成の檄文に反応した毛利輝元が大坂城入りし、秀秋も小早川家にとっては本家筋の毛利家に同調して西軍の一角となります。秀秋は徳川家臣の鳥居元忠が守る伏見城を大軍を率いて攻め、落城させます。

この後、19歳の秀秋の所在が不明です。

西軍の主力が大垣城にこもり、東軍と対峙している局面で、秀秋は大垣城から西方に離れた松尾山に陣を置きます。その態度はすでに戦闘に消極的です。

この間、秀秋の元には東軍の黒田長政から西軍を裏切り東軍に就くよう説得する手紙がとどきます。その理由として、西軍の秀秋への処遇が薄い事、北政所ねね(秀吉正妻)は家康と昵懇で頼りにしている事、などがあげられていました。長政の調略に応じて、秀秋は家康から遣わされた軍監の奥平貞治を陣内に入れ、裏切りを約束しました。

秀秋が陣を置いた松尾山は、主戦場の大垣城から離れ、西軍後方隊の大谷吉継の横に位置します。これを見て吉継は、小早川裏切りを想定した陣形に変形します。石田三成も作戦を変更し、関ケ原で東軍を待ち受けるため城を出ます。ちょうど四方の山から関ケ原に誘い込まれた東軍を囲い込む形になりました。鶴翼の陣です。西軍にとって戦略上は勝利の方程式にはまりました。

戦闘開始の午前中はほぼ互角、むしろ西軍の奮闘がみられます。家康は本陣を関ケ原の真ん中に押し出します。しかし、秀秋は動きません。秀秋が家康本陣を襲う可能性もあります。さすがの家康も動揺し、「あのこせがれめ、見誤ったか」と声にもらします。裏切りを催促する鉄砲を撃ちかけます。

秀秋は動きました。松尾山を下り、大谷軍に襲い掛かります。一時は跳ね返した大谷軍も10倍の軍勢で攻められては勝てません。吉継は、担がれていた輿をおろさせ、戦闘中に自ら腹を切ります。

秀秋は東軍勝利の立役者でしたが、行動の遅さを家康に叱られるのではないかと身を縮めていました。

秀秋は55万石に加増されましたが、その後、精神を病み、2年後に21歳で亡くなりました。同月に兄弟3人も不思議に病死し跡継ぎもなく、小早川家は改易となり消滅します。

同様に裏切り行動をした吉川家や脇坂家は生き残り、徳川幕府に貢献した事を誇り、語り伝えます。   しかし小早川家は、滅亡したことで語る子孫を得ず、世間からは裏切り者として烙印を押されて今も記憶に残り続けています。                                      (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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