NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 藤原道長

966年生まれ。藤原北家、摂政関白藤原兼家の五男。兄姉に道隆、道兼、道綱、詮子。

子に頼通、彰子、妍子、威子。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三帝の外祖父。

一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てます。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮としますが、道長に反抗的な三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込みます。1016年に彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となります。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けました。

1018年に後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。平安中期に藤原氏摂関政治の最盛期を築き、この頃に権力の絶頂にあった道長は、有名な望月の歌を詠んでいます。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも 無しと思へば

ただ、この歌は自らの日記には記されておらず、同席していた道長の政治的ライバルである藤原実資の日記・小右記に残されています。

道長は、この歌が残ったことで傲慢な政治家として有名ですが、信長のような独裁者とは違うようです。

道長が出世できたのは、姉であり天皇の后である詮子の推薦で内覧に任命され、関白と同等の官位を得たからです。この異例の出世で兄道隆の子・伊周と争うことになります。

道長は一条天皇に中宮定子とは別に二人目の后として彰子を中宮とし、紫式部を付けます。

この権力闘争において、35歳の道長は精神衰弱となり政治を引退し出家まで考えたことが自筆の日記の御堂関白記(国宝)に残されています。

細かく日常を記しており、喜怒哀楽を表に出し、末っ子らしい無邪気な性格とわかります。

陰謀家ではないが、チャンスは逃さない。

道長には同族のライバルが多くいました。伊周、実資、隆家、公任、行成、らがいます。

道長は彼らにも贈り物を送り、彼らの道長批判の声も聞きます。

彰子の家庭教師の紫式部には源氏物語を自由に書かせ、文学に長けた一条天皇が彰子のサロンに顔を出すよう仕掛け、皇子誕生に成功します。

娘3人を3人の天皇に后を出した後、道長は54歳で政界を引退し出家しましたが、影響力は残り続け、62歳で死去しました。                                    (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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