NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 安倍晴明

安倍晴明 921-1005年 平安時代の陰陽師。土御門家の祖。官位は従四位下。

師匠である賀茂保憲から天文道を伝授されたが出世は遅く、40歳で見習い51歳でようやく天文博士に任じられました。保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現し、晴明59歳に後の花山天皇の命で那智山の天狗を崩ずる儀式を行いました。

花山天皇、一条天皇、藤原道長の信頼を得ました。一条天皇の急病をみそぎにより回復に至らせ、道長にかけられた呪いを払い権力保持に協力しました。

晴明は陰陽師として、天皇に代わって時間を支配すべく暦を作り、世間に吉凶禍福をほどこし、人々の不安を解消する役割を担っていました。

彼が特筆すべき陰陽師である理由は、創造性にあります。伝統を保守したのではなく革新に長けていたのです。

比叡山天台密教(仏教)の加持祈祷に対し、神道の陰陽師として泰山府君祭を開発しました。人間の寿命を書き換えて健康を保持する大技で、一条天皇や足利義満が利用しました。

また縁起の悪い日を良い日に転じてしまう、禹歩(ウフ)とか反閇(ヘンバイ)と呼ばれる呪術、北斗七星の形に歩を進めることで災いを払って清める大技を清明は開発しました。

晴明は官僚として道長など権力者の意向に添いながらも、盲従していたわけではありません。

道長の出世を導いた姉であり一条天皇の生母である藤原詮子が崩御し、喪に服すため毎年恒例の追儺(鬼を払う儀式、現在の節分儀式)を自粛することが命じられました。しかし晴明は、都の人たちの年末の行事への期待を鑑み、強行しました。にぎやかに鬼を払って新年を迎えることに人々は安心し、朝廷が晴明を罰することもありませんでした。

84歳の晴明の死後、超人として描かれていきました。晴明の子孫たちは陰陽道の正当性として賀茂家を超えることに成功し、従二位に昇進し土御門家を名乗ります。

陰陽道は明治維新になるまで政治に影響を与え続け、現代でも人々の日常生活において地鎮祭や結婚式の決定などに影響を残しています。 (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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