NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 中宮定子

中宮定子 藤原定子                                      977年~1001年 享年25                                   父親:藤原道隆(道長の兄)                                 母親:高階貴子                                       配偶:一条天皇  女御(皇后)                                 女房:清少納言

父・藤原道隆が祖父・兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任し、栄華を謳歌します。       

定子は数え14歳の春に、11歳の一条天皇に入内し、皇后に冊立され「中宮」を号します。

夫・一条天皇とは仲が良く、父道隆が定子以外の入内を許さなかったため最初は定子の独壇場でした。しかし、道隆が没すると他の娘も入内し承香殿女御元子は弘徽殿女御義子より寵愛を受けます。一条天皇と定子・彰子のふたりの正妃の仲は良好で、機知を愛し風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮が見られ国風文化が花開きます。一条天皇と中宮定子の仲睦まじい様子を清少納言が枕草子で伝えています。

関白であった定子の父・道隆が、ついで定子の叔父・道兼が急死すると、その弟道長と定子の兄・伊周が権力を争います。伊周は道長を呪詛、その弟・隆家の従者が道長の随身を殺害するなど、中関白家(道隆系)は荒れていきます。定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院を弓で射るという事件を起こします(長徳の変)。当時懐妊中の定子は内裏を退出し里第二条宮に下りましたが、その時ほとんどの公卿はお供の行列に参加しませんでした。二条宮は、左遷の命を受けても病気だと偽り一向に出発しない兄・伊周と弟・隆家をかくまいます。ついに一条天皇より強制捜査の宣旨が下り、二条宮を検非違使が捜査。隆家は捕らえられ、伊周は出ていたが戻ってきて従います。この日、定子は自ら鋏を取り尼僧に落飾しました。

その後、伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れました。

道長の娘・彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、先に「中宮」を号していた皇后定子は「皇后宮」を号させられ、史上はじめての「一帝二后」となりました。同年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御し、生前の希望から鳥辺野の南に土葬されました。           陵墓は京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)とされています。               (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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