NHK大河「べらぼう」を仕事に活かす 蔦屋重三郎の始動 ②
1775年には老舗の版元である西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行します。これは、大判錦絵での遊女絵の先駆けとなりました。掲載された遊女は蔦重が選定したと思われます。出版業界と吉原内部の動向を知る蔦重だからこその仕事です。高価な絵の具を用いた華やかな作品であるため、吉原遊郭が出版費用を提供した可能性があります。
1776年、蔦重は山崎屋金兵衛と組んで、北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行しました。『青楼美人合姿鏡』は68人の遊女の姿を、四季の移ろいをテーマに色鮮やかに描いた入銀物で、序文を重三郎自身が手掛けています。これは、蔦重が企画の発案や主導を行ったと考えられます。
また、鱗形屋が手掛けた恋川春町の『金々先生榮花夢』をはじめとした黄表紙や戯作本が流行したことに刺激を受けたと見られ、1777年からは戯作本、1780年からは黄表紙の刊行にも着手するようになりました。
この時期に刊行を手掛けた作品としては洒落本『娼妃地理記』、黄表紙『伊達模様見立蓬萊』、『身貌大通神畧縁記』などがあります。特に『身貌大通神畧縁記』の作画を手掛けた喜多川歌麿は、大成前の北川豊章を名乗っていた時代であり、重三郎と組んでの仕事は大きな転機となりました。
さらには浄瑠璃の富本節をまとめた富本正本の刊行にも着手し、蔦屋の基幹出版物として人気を博しました。
1783年には、鱗形屋の吉原細見株を買収し、『五葉松』という名で新たな吉原細見を刊行するようになりました。
その他、恋川春町や朋誠堂喜三二、志水燕十、四方赤良(大田南畝)、雲楽山人、唐来三和などを起用した黄表紙や洒落本、狂歌本の作品が刊行され、蔦屋重三郎は一線級の版元として認知されるようになりました。
この年に豪華な顔ぶれを揃えて正月新版を大々的に喧伝した背景には、日本橋進出を視野に入れた事前宣伝の狙いがあったのではないかと指摘する研究者もいます。実際に、蔦重は日本橋への進出を実現させます。(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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