NHK大河「べらぼう」を仕事に活かす⑦塙保己一(盲人職業)

塙(はなわ) 保己一(ほきいち) 1746-1821 享年76                     江戸時代の国学者 「群書類従」の変遷者。                                幼くして失明するも総検校まで出世し、正四位を授与。

 5歳のときに胃腸病にかかり7歳で失明しました。手のひらに指で字を書いてもらい文字を覚えました。手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができました。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることなく正確に語るほど記憶力がありました。10歳で「江戸で学問を積んで立派な人間になりたい」と考え、15歳で江戸に出、永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せます。約3年間を盲人としての修業に費やし、17歳で盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改めます。按摩・鍼・音曲などの修業を始めるも、不器用でどちらも上達せず、座頭金の取り立ても出来ませんでした。絶望して自殺しようとするが、直前で助けられた保己一は、雨富検校に学問への想いを告げたところ、「泥棒と博打の他は何をしても構わないが、3年間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は様々な学問を学ばせました。保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めました。雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説きました。こうして宗固の門人として教えを受けることとなり、保己一は国学を学びます。そして、漢学や神道、律令、医学、和歌を学びました。1769年に賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学びます。1775年には衆分から勾当に進み、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めました。

 1779年、『群書類従』の出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願します。

1793年、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始めます。和学講談所は同年7月には林大学頭の支配をうけるようになり、準官立機関となりました。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、1819年に『群書類従』666冊を完成させました。保己一が74歳のときで、34歳のときに決心してから41年後のことでした。

 また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめています。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在同所の出版している『大日本史料』がそれです。                                               (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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