NHK大河「べらぼう」を仕事に活かす➉為政者と宗教戦争
「べらぼう」の江戸時代は、鎖国政策により外国との交渉は非常に狭き門でした。
それでも、1774年に「解体新書」が杉田玄白・前野良沢によりオランダ語からの翻訳医学書が刊行され将軍にも献上されました。
1633年に鎖国令が3代将軍の徳川家光によって発令されました。
1635年に外国との貿易は中国とオランダに限り、長崎の出島への入港を限定しました。
1637年に島原・天草の乱が起こっています。
長崎以外では、北海道松前藩によるロシア系との貿易、対馬による朝鮮外交、薩摩による琉球貿易があり、鎖国といえども海外貿易では4つの窓口がありました。
鎖国政策の意図は、キリスト教が国内に広がることを阻止することです。
オランダはキリスト教国ですが、プロテスタント(新教)であり、貿易のみに専念し布教はしないことを幕府と約束しています。
1587年に豊臣秀吉により伴天連追放令が発せられたのは、イエズス会が長崎領を植民地化していたこと、キリスト教信者でない日本人を奴隷として国外へ連れ出していたこと、布教の目的が侵略にあることを宣教師から知りえたためです。
徳川家康も江戸開府後にスペインとの国交貿易を積極的に進めましたが、キリスト教の布教が条件だったために交渉を止めました。スペインやポルトガルが布教で住民を宗教的に洗脳した後で武力も活用しながら世界を支配する方針であることを知っていました。
宗教の信徒が武力行使した場合の統治の難しさを彼らは体験から知っていました。
織田信長は一向宗(仏教:浄土真宗)との戦争で11年戦い、弟など親族を8人も失いました。
徳川家康も一向宗との戦争で、腹心の部下に裏切られ、自らも鉄砲玉を受けています。
宗教は、現世ではなく死後の安楽を約束する場合は、喜んで命を捧げるため、統治者にとっては非常に都合の悪いものになります。
江戸時代の為政者にとって、貿易と宗教の別離は政権維持の生命線だったのです。
(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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