NHK大河「べらぼう」を仕事に活かす⑪徳川治済(はるさだ)  

徳川治済(とくがわ はるさだ)は、江戸時代後期の武士。御三卿の一つである一橋家第2代当主ゆえ一橋治済とも呼ばれます。8代将軍・徳川吉宗の孫。11代将軍徳川家斉の実父として権勢を誇り、幕政に隠然たる影響力を持ちました。

1751年に徳川宗尹(一橋家初代)の四男として生まれます。兄が他家に養子に出たため、一橋家の世子となり、将軍徳川家治より偏諱を賜り治済と名乗り、一橋家の家督を継ぎました。

田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟・意誠や、甥・意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていました。そのため、当初は田沼とは親しい関係で協力し合い、将軍候補だった田安定信を白河藩松平家に養子に出すことに成功します。

10代家治には息子の家基という11代将軍候補がいました。その18歳の家基が鷹狩の途中で急死するのです。そのために、11代将軍候補は治済の息子である豊千代が抜擢され後に家斉将軍となるのです。家基急死が治済の陰謀ではないかと考えられます。当時は田沼意次の仕業と言う噂が流れたのですが、この噂を立てたのが治済という見方ができます。なぜならば、家基急死後の人事異動が家斉に都合良すぎるからです。

田沼意次の息子・意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されます。動機は田沼親子に佐野家の家系図をだまし取られたからだとされています。ところが、この事件についてオランダ人商館長の報告書に、幕府の高官の指図に寄った暗殺されたと書かれているのです。

次に、1786年に将軍家治が亡くなると治済は松平定信ら反・田沼派と共謀し、意次の罷免と田沼派の一掃が行われました。老中には松平定信が抜擢されました。

1788年に新将軍家斉は父・治済を「大御所」待遇にしようと幕閣に持ちかけます。当時朝廷でも光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたことに松平定信が、前例がないとして反対するという尊号一件が発生していました。その結果、大御所待遇も同様に不可となり、治済・家斉父子の激しい怒りを買った定信は後に失脚することになります。

一橋治済は徳川将軍家・及び徳川御三家から宗家を奪い、以降は一橋家から将軍を輩出する形に定まります。

一橋治済への評価は、野心的な黒幕陰謀家・ダークヒーローがつきまといます。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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