能登半島地震が気づかせてくれたこと ~大切な人を守るために~
帰省人口が最も多くなる元日に発生し、最大震度7を観測した能登半島地震から、もうすぐ2年になります。
輪島市にある私の父母の実家は共に被災しました。発生時、どちらの家にも定住者は居なかったため、人的被害はありませんでしたが、父の実家の近隣では1階部分が押しつぶされて、住人が倒壊死した家が複数ありました。そして同様の被害で亡くなられた人が多かったことを、その後の報道で知ることとなったのです。
地震発生による土砂崩れなどで道路が寸断されたため、すぐには現地に行けませんでしたが、数十日が経過し、雪が解けた頃にようやく現地に向かうことができました。行く途中の車窓から目にした、震災の爪痕が残る数々の光景に絶句したことは忘れられません。
父の実家は昭和60年代に建て替えており、昭和56年に施行された「新耐震基準」が適用されていたためか、倒壊は免れていました。しかし、家屋内外の壁は落ち、建具が外れ、ガラスが割れ、家具や物が散乱している状態でしたので、素人目から見ても修繕やリフォームで何とかなるレベルではありませんでした。
1階の居間で、しばし呆然と立ち尽くしていたとき、私の目の高さに、1階部分が押しつぶされた隣家2階の窓と屋根が見えました。住人の一人が倒壊死した家でした。
そのとき思ったことがあります。それは、地震発生時、私が立っている場所(居間)に人が居たとして、“怪我はしたかもしれないけれど、命までは落とさずに済んだのではないか?”ということでした。
今回の地震で1階部分が押しつぶされている家の多くは、見た目でもかなり築年数が経過しているものばかりでしたので、耐震補強の重要さを身に沁みて知らされる機会になったのです。
当時のニュース映像で、私が最もショックを受けたのは、1階部分が押しつぶされて脱出できずに声を上げている人の家族が、外から声をかけて励ましている姿でした。重機がなければ救出はできない状況で、大きな余震も続いており、二次被害防止のため、揺れるたびに家族は現場から退避するよう促されていました。まさに後ろ髪を引かれる思いで現場から離れたことは想像に難くありません。その後、現場に戻って呼びかけたときには、返事がなかったという辛く悲しい結末でした。
地震はいつ、どこで発生するかを正確に予測することができない以上、現在の耐震基準を満たしていない建物については、費用や時間はかかっても、なるべく早期に耐震補強工事を決断する必要があると言えます。自分自身や家族などの大切な人たちを災害から守ることが最優先でなければなりません。
当学会の団体会員には、住宅建築やリフォーム関連の企業様も多く、「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」も複数の企業様が受賞されています。たとえ居住する地域からは遠くても、相談を持ちかければ誠意をもって応じてくださり、業界のネットワークを通じて信頼できる企業様を紹介してくださるものと思います。
この年末年始、家族や親戚が集まる機会があれば、話し合うテーマの一つに加えることをお考えくださればと思っています。
人材塾7期生
元・金沢星稜大学女子短期大学部 山本 航

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