水俣病
野口具秋です。
熊本地震に被災されたかたがたに心からお見舞い申し上げます。
公害の原点といわれる水俣病公式認定から5月で60年。
子ども心に、猫が狂ったように飛び跳ねる
ニュースは今でも覚えています。
「チッソ」が垂れ流した有機水銀が原因です。
今なお、多くの方がこの症状で苦しんでいます。
四日市喘息、富山湾水銀公害、富士市田子の浦パルプ廃液。
甲州街道・大原交差点、自動車廃ガスによる鉛公害など
幾つも思い出します。
幸せな時代の背景には、60年前以前、経済優先日本であった痕跡と
闘ってきた歴史がありました。
特別法廷なる裁判方法があるのだそうです。
特にハンセン病の患者たちは、国の間違った隔離政策によって
偏見や差別に苦しめられ、 数々の悲劇に巻き込まれてきました。
そうした中で、犯罪に関わった疑いで起訴された患者が、
事実上非公開の特別な法廷で裁かれていた。
抗結核剤がハンセン病治療剤として使われ、
その薬剤を販売していたために富士山の麓にある施設を
訪問したことがあります。
入居者は広大な施設内で、塀に囲まれ自給自足の生活を送っていました。
昭和40年代、製薬メーカーにいて、
四日市に繋がる名古屋南部工業地帯を担当していました。
自社製品の喘息治療薬を販売する毎日です。
公害認定の患者は多かったのです。
酷い発作に襲われると、内服薬では効果ないと医者に窘められました。
静岡中東部に転勤になり、田子の浦の悪臭に顏を顰め、
背後に見せる霊峰富士の雄姿を見る度、
違うぞ!と、つぶやく日々を数年間過ごしました。
1号線バイパスを通る度に強烈な悪臭にウンザリであった町が
担当になるころは段階的な規制の結果、かなり改善を見せていました。
2合目あたりは匂いも失せ、
駿河湾の遙かなる眺めと秀麗富士の姿が美しかった。
いつかはこの地で…、どの得意先も富士が望めました。
特に冬の夕刻、茜色に染まる神々しい絶景を飽かず眺め続けます。
時は流れ、棹玉・朝霞に移り住み長い年月が流れました。
野口さん
東村山市に全生園というハンセン病患者の療養施設が今もあります。
15年前、患者による偏見と差別についての講演会がありました。
本田 佳世子