特攻の母、2000年の記事から

8月15日、終戦記念日。

多くの日本人を始め亡くなった方々や苦労した方々には感謝しかない。

一昨日のNHKで731部隊の当時の部隊員だった方の肉声が流れた。
医者が殺人をした。日本人にはこんな愚かさ醜さがある。
戦争は形を変えて大国等が武器で喰っている人たち・産業を支えている愚かさがある。

神風特攻隊も、上司や天皇陛下等にここまでやっていますというメンツだったと思う。
いさぎよく飛びだったとは思えない。

特攻の母、2000年の記事から。
去年だろうか、師匠の法政大学大学院 坂本 光司教授と何回目かに知覧を訪れた。
坂本教授、まだ元気だけれど決まった年齢に達したので「語り部」引退に憤慨していた。

「人間の究極の幸せは、1つは愛されること、2つ目はほめられること、3つ目は人の役に立つこと、4つ目は人に必要とされること」。
年齢は関係ない、語り部の生きがいもここにある。

「特攻の母」が隊員の前で一度だけ大泣きした日を紹介したい。
『産経新聞』 2000/11/28
富屋食堂の鳥浜トメは、特攻隊員の前で一度だけ大泣きしたことがある。
その相手のことは、二女・赤羽礼子(70)の当時の日記に小さな字でびっしりと書かれている。

 「光山さん(昭和二十年)五月十一日午前八時(突入) 私たちにとって一番忘れられない方であります」
 朝鮮出身の光山文博少尉=当時(24)、卓庚鉉、戦死後大尉=とは1年半ぶりの再会だった。
光山は昭和18年秋、京都薬学専門学校(現・京都薬科大)から学徒出陣、当時は陸軍飛行学校分教所だった知覧に滞在し、訓練を受けたことがあった。
礼子の記憶では、一人でいることが多かった光山をトメは何かと気にかけ、台所に立たせたり、一緒に食卓を囲んだり、と息子のように扱った。

「お別れを言いに来ました」。久しぶりに富屋食堂に戻ってきた光山は、以前にも増して寂しそうだったという。
トメが、食堂に一人でいた光山を自分の部屋に呼んだのは出撃前日、5月10日の夜だ。
礼子と当時18歳だった長女の美阿子を加えた4人でいると、光山が自分を励ますように明るい声で言った。

 「今夜は最後だから、故郷の歌を歌うよ。おばちゃん」
 ♪アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を 越えていく 私を捨てて 行く君は 一里も行けず 足痛む
 光山は戦闘帽を目が隠れるまでずらした。それでも涙は隠せなかった。
「あんな悲しいことはなかった」と礼子は言う。トメも礼子も美阿子も、わんわんと泣きながら「アリラン」を歌った。

光山は1年前に母を病気で失っていた。3月には、「心残りがある」といとこに頼んで、年老いた父と嫌がる十歳代の妹を船で朝鮮に送り返したばかりだ。
次の日早朝、他の隊員と同じようにそでに日の丸を縫い付けた彼は、見送りに来たトメと握手して、南の海に消えていった。

*  *  *
 それにしても、隊員たちにかけるトメの愛は尋常ではなかった。
 〈私の母は 私の母じゃない〉
 光山らを「お兄ちゃん」と慕っていた礼子でさえ、隊員への嫉妬を日記に書いて、トメからしかられたことがある。
礼子が、母の優しさの理由を知ったのは、トメが平成4年に亡くなる直前だったという。

“特攻隊員の母”と慕われた鳥濱トメさんを称える顕彰碑の除幕式に出席した、
石原慎太郎・東京都知事ら=2007年10月3日、鹿児島県知覧町
 トメは明治35年6月20日、薩摩半島の南西端の町・坊津で生まれている。
未亡人だった母親が、漁業の町・枕崎の実業家宅に女中奉公していたとき、妻子あるその実業家との間にできた子供だ。
兄や姉と違い、母の実家の姓を名乗り、父親に会うことも許されなかった。

 母一人、三兄妹の家は貧しかった。
トメは小学校にまともに通うこともなく、8歳で枕崎の裕福な家に子守奉公に入った。
15歳になると、鹿児島市内の警察署長宅に女中奉公した。
 同じ年頃で女学生だった署長の娘姉妹は、トメにかなりきつくあたった。「靴を磨いといて」「あなた、何もできないのね」。

 奉公が珍しくなかった時代とはいえ、トメはつらかったのだろう。
「貧乏だから仕方ないけど、悲しかったんだよ。お金をちゃんと稼いで、お母さんに送らないといけなかったから我慢したんだよ」。
礼子は、トメからそう聞かされた。

*  *  *
 トメが他人の優しさを初めて知ったのは18歳のころ、枕崎の隣の加世田市の「竹屋旅館」の女中になってからだ。ここの女将は今までの雇い主とは違い、小遣いや着物をくれた。
 「どん底から、ぱっと人生が変わったんだよ。人間は他人にこうしなければならない、と思うようになってね」。
これも礼子が聞いた言葉だ。
 運命の出会いもあった。旅館を独身寮にしていた南薩鉄道のバス運転手、5歳年上の鳥浜義勇(よしとし)との恋愛だ。
夜になると、義勇が字を教えてくれ、勉強の楽しさも初めて知った。

ただ、結婚には障害があった。義勇は大隅半島東部の町・志布志の有力者の家の出で、一族こぞってトメとの交際に反対した。
大正11年、二人は入籍しないまま、知覧に移って事実上の新婚生活を始めた。
 数年後に正式に結婚が認められたのは、トメの努力があったからだ。
義勇の給料はすべて志布志の義弟の学費として送り続けた。生活費は、トメがサツマアゲや魚の行商をして稼いだ。

 余談だが、トメは、地元の新聞広告で着物のモデルになるような美人だった。
当時の写真から暗さやつらさはみじんも感じられない。少女時代に比べれば、ようやく幸せをつかんだ思いがあったに違いない。

*  *  *
 昭和4年、27歳のトメは、かき氷や丼モノを出す「富屋食堂」を開業した。
近所の人たちが材料を持ってきたら、ただで料理をふるまう。そんな牧歌的な店だった。

知覧の町、そして食堂の様子が一変するのは昭和15年、大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校(福岡)の分教所として陸軍の飛行場建設が始まってからだ。
日中戦争の深みにはまった軍部は、操縦士の養成を急ピッチで進めていた。建設には中学生も駆り出された。

 17年3月に飛行場が開所すると、富屋食堂は飛行兵たちが自由に立ち寄れる軍用食堂に指定された。
やってきたのは最年少だと14歳の少年飛行兵。18年には、特別操縦見習士官と呼ばれる学徒出陣者も日曜日ごとに食堂で遊ぶようになった。
「おばちゃん」。愛情豊かなトメの性格とあいまって、親元を離れて厳しい訓練に明け暮れる彼らはすぐに打ち解けた。

「あのころはまだ、のんびりしていました。母が入院している病院の上空を練習機が何度も旋回したり。
まさか、特攻隊員になって帰ってくるとは、私も母も考えてませんでした」と、礼子はトメの気持ちを代弁する。
 他人のつらさや苦労を放っておけないトメ。数年後に「お別れにきました」と戻ってきた彼らに会ったときの悲しみは、いかばかりだっただろうか。=敬称略=(三笠博志)
(※iRONNA編集部注:肩書き等は『産経新聞』掲載当時のものです)

合掌

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