ともに働きたくなる人を大切にするいい会社:クラロン

 こういう時期だからこそ、坂本先生の著述を勉強し直しています。今回は、クラロン(運動着メーカー)”についてご紹介いたします。
(“クラロンのホームページ:https://www.kuralon.co.jp

1. 障がい者たちを主役にすえた運動着メーカー

●激戦地で部下の命を守り抜いた将校
 “クラロン”の創業者は、戦争中激戦地ビルマで戦った将校でした。重傷を負って足手まといとなり「殺してほしい」と懇願する部下を背負って、ジャングルの中を逃げ続けた“人への優しさと芯の強さ”を持った人でした。戦後、人徳を見込まれて市会議員や会社役員を務めていた創業者は、1956年親戚とやっていた“メリヤス肌着”の会社を社員ごと引き取り、新会社を設立し、障がい者3名を採用した。それが“クラロン”です。
 その後、1968年、養護学校の先生からの依頼で、知的障がいのある少女を採用しました。「1度別の会社に就職したものの、仕事が覚えられず、すぐ解雇された」とのことでした。創業者は最初ためらいましたが、「ここで断ると、この子は確実に行き場をなくしてしまう」と考え、引き受けることにしたのです。
 彼女に仕事を教えるのは想像以上に大変でしたが、つきっきりで仕事を教えました。ある日のこと、創業者が何気なく「うまくできるようになったね」と声をかけると、今まで返事もできなかった少女が「はい」と小さな声で答えたのです。のぞき込むと、少女がまぶしそうに笑顔を見せていました。「この子が笑った!」創業者は、胸が熱くなりました。「あの子が、私たちに“優しさ”と“奉仕の心”を教えてくれたのです。私たちのほうが、障がい者の人たちから学ばせていただいています‥。」このようにして、障がい者たちを主役に据える“クラロン”の歴史が始まりました。

2. “社風”を伝えるエピソード
“クラロン”の社風が分かる“エピソード”をお伝えしたいと思います。

●死ぬまでここにいてください
 1984年2月の寒い冬の朝、1人の身寄りのない老女が静かに息をひきとりました。老女は、“クラロン”の社員で78歳でした。彼女は54歳のとき、年老いた母親を養いながら勤めていた工場が倒産し、困って“クラロン”を頼ってきたのでした。定年まであと1年しかありませんでしたが、しばらく定年を延長することにしました。やがて母親も亡くなり天涯孤独になった彼女は、年も忘れて若い人たちと一緒によく働きました。気がつくと、65歳になり、70歳になっていました。
 「“そろそろ辞めていただくかと妻と相談したところ、“いま暇をだしたら、あの人はどうなってしまうでしょう。生きる張り合いがなくなり、死期を早めるだけです。あと1年‥”と延長し、そして彼女は78歳になりました。」
 野辺の送りを終えたとき、遺品の中から1冊の預金通帳とメモが出てきました。「このお金で、私の最後の始末をお願いします。」彼女のたどたどしい文字で書かれていました。「彼女は、いつ、どんな気持ちでこの遺書を書いたのだろう‥。」その心情を思うと、創業者は涙が止まらなかったのです。

●社長さん、頑張って!
 あるとき、“情緒が不安定で、ときどき奇声をあげる”男の子(Kくん)が入社してきました。職場で何度となく大声で奇声を発し、踊るような動作をします。そこで、創業者は一計を案じ、Kくんを倉庫に連れて行って“2人で気が済むまで大声を出し合う”ことにしました。すると、さっぱりするのか、Kくんはまた職場に戻って仕事を続けます。創業者は、それを2年間続けました。すると、Kくんは奇声をあげることも、踊ることもしなくなったのです。
 それ以後、創業者はKくんの精神を落ちつかせるために、“Kくんの肩をトントンとたたいてあげる”ようになりました。Kくんは、創業者を見つけると駆け寄って来て「社長、肩、肩」と催促します。創業者が「はい、はい」と肩をトントンたたくと、Kくんはニコニコして仕事に戻るのです。
 ところが、創業者は膵臓がんで急死してしまいます。創業者の妻である須美子さん(現会長)は、ショックで生きる気力を失くしてしまいました。クラロンの経営と社員たちの生活は 須美子さんの両肩にかかる事態となったのですが、どうにもならないくらい深い悲しみと慟哭に襲われました。悲しみが消えぬ須美子さんがやっとの思いで会社に顔を見せたとき、突然向こうからKくんが駆け寄ってきました。そして、「肩、肩」とトントンするよう催促します。今まで創業者以外とはしたことがないのですが、須美子さんは「あっ、そうね」とトントンしてあげました。すると、びっくりするような大声で「社長さん、頑張って!」と言ったのです。Kくんは、社長が亡くなって、須美子さんが深く悲しんでいることを感じ、彼なりに一生懸命考えて慰めてくれたのでしょう。そう思ったら、須美子さんは涙があふれて止まりませんでした。「これをきっかけに、私は立ち直りました。この子たちのおかげです。この子たちから癒され、守られているのは、私のほうだったんです‥。」

●会社に行くのが楽しくてたまらない
 “クラロン”は、1972年に“福祉会館”という建物を敷地内に建てました。身寄りのない孤児や障がい者、母子家庭など社会的弱者の人たちが住む寮としてです。この福祉会館では、縫製工として自立できるよう“縫製の技術”を教えたり、結婚して家庭生活が営めるよう“書道、花道、料理など”を教えました。1人1人が自立して、結婚し、当たり前の人生が送れるよう、寄り添っていたのです。
 “クラロン”では、無遅刻無欠勤の表彰者は決まって障がい者だったそうです。「社長たちが大切にしてくれるから、心の底から優しくしてくれるから、“会社に行くのが楽しくてたまらない”のです。」あの東日本大震災の翌日、自分たちも被災したのに、クラロンの社員は誰1人として欠勤しなかったそうです。こんなにも社員たちから愛されている会社が、他にあるでしょうか。
(注:現在は、社会も豊かになり、入寮を希望する人はいなくなりました。また、有給休暇取得促進を図る為、今は無遅刻無欠勤表彰制度はありません。)

3. “私が感じていること”

●“幸せ”は働くことにある
 “クラロン”では、障がい者を全員“正社員”として雇用しています。その人が生きている限り“幸せづくりの手伝いをする”と考えているのです。
クラロンに入社した障がいのある女の子が書いた詩を紹介します。

「私の将来の夢は、人の役に立つことです。
 私は、どんなことをしても、のろのろで
 うまくゆきませんでした。
 でも、母が言いました。
 『お前にもできることがある』と
 はげましてくれます。
 私は、この言葉を信じ、
 いっしょうけんめい働きます。」

 鹿児島の“ラグーナ出版”の設立メンバーである精神科医の森越さんは、次のように述べています。「精神障がいという障がいは、進行を抑えたり、症状を軽くすることはできますが、治すことはとてもむずかしいのです。この障がいを治す最もよい方法は、“働くこと”なのです。」
 “クラロン”は、社員122人のうち、障がい者が約36%、女性が約75%、65歳以上が約11%です。定年は60歳ですが、本人の希望があれば1年ごとに“正社員”として何年でも延長できます。最高年齢は、83歳の女性です。また、その人の得意や興味にあった適材適所を実践したり、作業工程を細分・単純化したり、ミシンを改造して障がいをもった人にも対応できるようにするなど、いろいろな工夫をしています。障がい者や高齢者、女性の能力を最大限に引き出している会社なのです。

人を大切にする経営学会 人財塾2期生(合同会社VIVAMUS)中村敏治

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