NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 最重要幹部の裏切り
石川数正 いしかわかずまさ
安土桃山時代の武将・大名。1533年-1593年。徳川家康より9歳年上。酒井忠次とともに幼少からの家康を支えた懐刀の重臣。しかし、小牧・長久手の戦いの後1585年に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石、信濃松本藩の初代藩主。
数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は大きな痛手でした。以後、三河勢は三河以来の軍制を武田流に改訂することになります。徳川家の機密情報も改めます。なぜ家康を裏切って敵方の秀吉に移ったかの理由は明確になっていないため、仮説が多くあります。
豊臣秀吉との外交関連
- 次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
- 秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
- 対秀吉強硬派である本田忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
- 数正が徳川家に従わせた経緯がある小笠原貞慶が離反し、秀吉と内通したため、その責任を追及されたとする説。
- 秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説
松平信康(家康の嫡男)関連
- 信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
- 信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
- 父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にもかかわらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるをえなかったからとする説。
- 家康と示し合わせ、徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
- 秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説
- 家康の影武者、世良田二郎三郎元信が立場を利用して信康を殺し、松平(徳川)家を乗っ取ったためという説。この説によれば、家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、松平家存続のために世良田元信が君主に挿げ変わっていた。数正もこのことは承認していたが、それはいずれ跡取りである信康が成長すれば、松平(徳川)氏の家督は信康が継ぐものと信じていたためである。しかし信康は信長の処断要求に乗じた家康(元信)の命令で処刑されてしまった。家康と松平家に対し強い忠義心を持っていた数正は、これに激しい怒りを覚えていたとされる。ただし、この影武者説は専門外の素人によるものであり、アカデミズムの立場からは否定されている。
一昔前は、家康家臣団からの裏切り者突き上げに耐え兼ね、正信は出奔したとされてました。
最近では、新資料の発見により数政が徳川安泰の為に出奔したとする見方が強まりました。
織田信勝が家康に数政を秀吉に遣わし和睦することを勧める手紙がみつかり、この通りに数政が出奔し、出奔した数政を徳川家臣団は追撃していないので、家康が承知していたと考えられます。
秀吉は、数政から家康の性格や思考法を聞き出し、秀吉が母親を人質として家康に差し出しても家康は殺すことはなく、秀吉に臣従することを確信し、実行したと思われます。
数政は秀吉より先に死にますが、もし数政の方が秀吉より長生きしていれば、関ヶ原の戦いがおこることなく徳川に天下をもたらしたかもしれません。
謎に包まれた真相は、現代の私たち個々が自由に描き、自分の人生の糧にしたい案件です。 (人を大切にする経営学会:根本幸治)
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