NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 西軍大将毛利輝元

西暦1600年7月 石田三成は、徳川家康が太閤秀吉との約束を破った独断を糾弾し挙兵しました。

この時、真っ先に呼応したのが、毛利輝元です。                             三成挙兵の当日に広島城から1万の軍勢を船団で率い、わずか2日で大坂城に入城し、淀君に拝謁し奉行衆を取込み家康がいた西の丸を占拠しました。輝元は豊臣秀吉の遺言、「東は家康殿、西は輝元殿が治めよ」にこだわっていました。しかし、天下を狙う家康は、西国の支配にまで手を伸ばしており、輝元はこれを許せなかったのです。

ただ、輝元には家康討伐して天下を取る意志はありませんでした。その器量が無いことは自覚していたはずです。輝元の意志は、天下を家康と二分する現状維持にあります。なので、関ケ原決戦前に家康とも文通しており、家康も成り行き上で西軍の大将になってしまった輝元に寛大で、輝元も本領安堵を確信して決戦後に直ちに大坂城から出ていきます。

しかし、輝元は成り行き上で西軍の大将になったわけではありません。三成挙兵を事前に察知して準備しておかなければ、広島から大阪に1万の軍勢を2日で動かすことはできません。さらに、輝元自身が指揮して西国にいる東軍の諸城を攻めています。これは、家康への事前説明から大きく逸脱します。輝元はこの程度で責任追及されることはないと楽観していました。輝元は、戦乱が長引く間に西国を自分の領地とする既成事実を作っておきたかったのです。公儀ではなく、私利私欲の行動です。

戦後、家康は輝元の行動を違約として改易処分にしようとします。これに驚いた分家筋の吉川広家が、自分の東軍への裏切りの褒美を返上して毛利本家の存続を懇願します。これが認められ、毛利は120万石から30万石へ減俸されるも、改易は免れました。

この処分を毛利本家は遺恨に思い、弁護してくれた分家筋の吉川家に対しても、余計な裏切りで関ケ原決戦が1日で終わったことを逆恨みしました。毛利長州藩はこの遺恨を260年抱き続け、幕末に爆発して明治維新につながります。

もし輝元が、家康との天下取り決戦を覚悟し、大谷吉継の戦略通りに豊臣軍の千成瓢箪を関ケ原の玉城に立てていれば、家康でさえ攻撃を躊躇し、まして西軍に裏切りがでるはずはなく、豊臣政権は持続し、徳川幕府の成立はなかったでしょう。                          (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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