NHK大河「光る君へ」を仕事に活かす 紫式部
973年、紫式部が誕生します。実名や正確な生没年は記録されていません。
父は学者の藤原為時、藤原氏といえども本流から外れ、和歌と漢学に優れながらも、六位蔵人、式部大丞という低い身分の貴族でした。
式部は幼少から漢文など書物を読みふけり、跡取り息子の弟より物覚えが良かったことから、父は出世を見込めない娘であることを残念がっていました。
長い交際の上、20歳年上の藤原宣孝と26歳で結婚します。されど、結婚3年後に夫は病死し、娘の賢子(けんし)が残ります。
夫を亡くした悲しみを紛らわすために30歳から書き始められたのが、「源氏物語」です。
従来の物語は、「竹取物語」の様なおとぎ話でしたが、式部は貴族社会の現実を物語に装って描きだしました。男性社会の漢文知識と女性社会の空想世界を織り込んでいます。
物語の評判が宮中にまで高まり、式部は藤原道長の推薦で宮仕えをするようになります。
しかし、道長からの寵愛と高い才能への嫉妬から同僚女房たちから悪口などいじめを受け、出仕できずに引きこもってしまいます。式部は決意して目立つことを避け出過ぎない処世術で復帰し認知を得ていきます。
一方で式部は日記の中で、清少納言は利口ぶって漢字を書き散らしているが学力は高くない、と悪口でこき下ろしています。
藤原道長は、式部をスカウトし、物語を書くための貴重な紙を豊富に提供します。源氏物語は宮中で評判になり、一条天皇が続きを読むために彰子の元にやってくることを目論見、実際に一条天皇が源氏物語のファンとなって彰子サロンに居つき、ついに皇子誕生に成功します。
紫式部自身も道長との親しげな会話を日記に残し、源氏のモデルが道長であるように噂する人もいる程でした。
式部が読んだ歌は、百人一首にも選ばれています。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
式部の一人娘の賢子も歌人として優秀で後冷泉天皇の乳母になっており、高い教養を評価されています。
式部の晩年は記されていませんが、長生きしたと伝えられています。
墓所は、京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられています。 (人を大切にする経営学会:根本幸治)
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