NHK大河「べらぼう」を仕事に活かす⑤ 八橋検校(盲人職業)
八橋検校(1614-1685)は、江戸時代はじめの頃の筝曲の祖と呼ばれ、演奏家であり作曲家でもあります。
生まれたのは、いわき市とする説が有力です。幼い頃から目が不自由で、三味線や筝(こと)の技法を学び、演奏者として名を高めました。
八橋検校は、大阪府の摂津で、城秀と称して三味線の分野で活躍していました。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学びました。この箏曲が現在の日本の箏の基礎を作り上げました。
独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めました。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『乱(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられています。
寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人・藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当(やまずみ こうとう)を名乗りました。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めました。
八橋検校の芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられました。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良も行っています。
貴族・武士・僧侶などの音楽だった筝を芸術音楽へと一般に発展させたことで、たくさんの人々が筝を弾けるようになりました。
銘菓・八ツ橋 京都の銘菓として知られる「八ツ橋」は八橋検校に由来するとされる説があります。八橋検校の死後にその業績を偲んで、箏の形を模した作られた堅焼き煎餅を「八ツ橋」と名付けたと伝えられています。ただし発祥には異説もあり、いずれの説も正確性が保証されていません。 (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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