福島原発訪問記

 2025年1月21日昼、いわき駅に降り立つと、集合場所のバスの前でスーパーマルトの石山常務がお待ちになっていた。「出発の前に、ぜひこれを。」そう言って笑顔で差し出されたのは、「日本一に輝いたほっけのおにぎり」であった。手にした瞬間、まだほのかに温かさが残っている。バスに乗り込み、席につくと早速その包みを開いた。ひと口頬張ると、ふわりと広がる旨みと香ばしさに驚かされる。美味しさに感動しながらも、これから目にするであろう現実を思うと、自然と心が引き締まった。復興への歩みと、原発事故の爪痕を自分の目で確かめるために、私はいわき駅を後にした。

 市街地を抜けたバスは福島第一原発へと向かう。最初は住宅や学校が並ぶ、ごく普通の街並みが続いていた。しかし目的地に近づくにつれ、人影は少なくなり、風景は急速に変わっていった。朽ち果てたパチンコ店、閉鎖された家電量販店、錆びついた飲食店の看板――そこに広がっていたのは、震災と事故の爪痕を色濃く残す光景であった。息を呑むほどの静けさと荒廃が胸に迫ってきた。

 最初に訪れたのは東京電力の廃炉資料館である。ここでは事故の経緯や廃炉作業の進捗、そして東京電力の反省が展示されていた。現地責任者は冒頭で深々と頭を下げ、「この事故は、過信と慢心による人災でした。私たちはその責任を深く認識し、全力で廃炉に取り組んでいます」と語った。その言葉の重みは、静まり返った場の空気をさらに引き締めた。挨拶を終えると、スタッフ全員が一斉に頭を下げ、謝罪の意を表した。映像資料には、津波が押し寄せる瞬間や、混乱の中で必死に作業を続ける職員の姿が記録されていた。画面越しにも伝わる緊迫感に、私は思わず息を詰めた。

 次に案内された敷地内では、無数の巨大な汚染水タンクが目に飛び込んできた。その規模の大きさにただ圧倒される。案内スタッフは「この敷地はかつて戦時中、飛行場として利用されていた」と説明してくれた。歴史の重層の上に、いま新たな人災の記憶が刻まれている。原子炉建屋の多くはパネルで覆われていたが、一部は鉄骨がむき出しのまま、瓦礫が残されていた。事故の爪痕がいまなお生々しく残っている。防護服を着た作業員が黙々と任務にあたる姿が、強く印象に残った。

 現在、福島第一原発には約2,000人のスタッフが常駐している。多くは単身赴任で寮生活を送り、日々現場に身を置いている。バスで隣に座った東電社員は、すでに9年間ここで働いているという。「もう慣れましたよ。でも家族と離れているし、楽な仕事ではありません。」その言葉には、静かな使命感とともに、背負う重さがにじんでいた。平日にはさらに多く、総勢約4,300人が現場で働くという。廃炉は40年に及ぶ長い道のりであり、年間の予算は約2,000億円、総額では8兆円を超えるとされる。発生した廃棄物は敷地内に厳重に保管され、外部に出ることはない。燃料デブリの取り出しも始まったばかりで、処理方針は依然として未定である。核廃棄物という「出口の見えない課題」の深刻さを、改めて痛感した。

 案内の中では「原発再稼働なしには電力供給が追いつかない」という声もあった。しかし、これほどの期間、費用、人材を投じるのであれば、再生可能エネルギーや蓄電池の活用によって代替できる道もあるのではないか。太陽光、風力、地熱など再生可能エネルギーの潜在力は大きい。とはいえ、それを本格的に進めるには政治的な決断と社会的な合意が不可欠である。そして何より、震災と事故から得た教訓を、次世代にどう伝えていくかが問われている。

 福島第一原発の廃炉作業は、いまようやく始まった段階にすぎない。被災地に広がるのは廃墟のような光景と、膨大な労力を必要とする現場の現実である。しかしその中で、人の手によって未来を切り拓こうとする営みが確かに進められていた。燃料デブリ処理の方針はいまだ定まらず、廃棄物も敷地内に留め置かれている。だからこそ、この現実を直視した上で問わねばならない。――原発は未来のエネルギー政策において、本当に持続可能な選択肢たり得るのか。再生可能エネルギーや蓄電池の技術革新は進んでいる。震災と事故の教訓を忘れることなく、科学的な視点と現実的な対応を重ねながら、日本のエネルギー政策がより持続可能な形へと歩みを進めることを、心から期待したい。

参考文献
『再エネの大量導入は原発とバッティングするのか?』―再エネ出力制御の要因分析とその解決法―

人財塾7期生
㈱東洋生興 前川

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です