佐村河内守氏事件について、聴覚障害を持つ方が思ったこと

日曜日担当の高澤です。
ちょっと気になる記事があったので共有しますね。

障害者=いいひとにうんざり~聴覚障害者からのメール
http://blogos.com/article/80329/

この記事を書いているブロガーに対して、聴覚障害を持つ方から佐村河内守氏事件についてメールしていますので下記に引用します。

「障害者=いいひと」この図式をもうやめませんか、と思うのです。障害を持っているのにこんなに頑張っている、勇気をくれる、気づかされた、私はもううんざりしているのです。もう30年も昔、「愛は地球を救う」の番組で、聴覚障害者が主人公のドラマが放映されると聞いたとき、同じ障害を持つ友人と一緒に、あのお涙ちょうだいのドラマ、うんざりだよね、と話していました。

その後、いくつかのドラマで聴覚障害の主人公が回りの健聴者の心を救う、みたいなものが流行り、手話が流行り、そのおかげで聴覚障害への偏見はいくぶん薄れ、手話も少しは市民権を得たようなところがありましたが、結局はいつでも障害者は心のきれいな人で、努力家で、私たち健常な人間は見習わなければならないのですよ、な美化された風潮ばかりとなり、結局はこの作曲家も障害を持ちながらも、こんなに美しい曲を作る「スゴい人」に出来上がってしまったわけですよね。もし、彼が聴覚障害者ではなかったら、その曲はこれほどまでに評価されていたのか、そのあたりは私にわかりませんが。

障害者を美化した世間にも問題があるのではないですか。そういう期待をするから、こんな問題が起きてしまった、ただそれだけのことだと私は思うのです。もちろん、努力を重ね人々の鑑になるような障害者のかたもたくさんいます。ただ必要以上に障害者に期待するべきではない、それこそ差別だ、と私は思っています。健常者と障害者の差別を無くそう、というのも無理な話です。そんなことを大大的に言うから差別が生まれるわけで。

今回の事件に関して、当事者である聴覚障害者がこのようなことを考えていることは正面から受け止めるべきだと思います。だからどうすればいいのか、という点はとても難しいのですが。

あくまでもこれがひとつの問題提起として、みなさんが考えるきっかけになれば嬉しいです。

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「佐村河内守氏事件について、聴覚障害を持つ方が思ったこと」への5件のフィードバック

  1. 高澤さん こんにちは!
    日本人だけで1億2653人もの人口がいるということはそれだけ違う意見を持っている人たちがいるということ!
    「美化してほしくない」と思っている人もいれば、「自分もがんばろう」と思う人もいるのではないでしょうか?
    きっと一つの答えはないんでしょうね・・・・。

  2. 村田さん、いつもコメントいただきありがとうございますー!
    いろんな人がいて、いろんな意見があって構わないと思います。
    一番まずいのは、人の意見を無批判に受け入れるステレオタイプの考え方だと思います。そうならないように気をつけたいですね。
    というわけで、引き続き勉強がんばりますー。

  3. はじめまして、ラグーナ出版に勤めている岩井雄次といいます。
    私は上の記事を読みまして、ある種のメディアの限界なんだろうな、と思いました。ご存知の通り、報道などにつきまとう問題だと思いました。すべての記事は「作られた」もので単語の選択ひとつにとってもある側面から切り取られたものでしかないことです。いろんな対象、なんでもそうだと思うのですが、複雑であり、裏表もあり、いろんな見方ができると思います。そして、それに対して対象を表現というカタチで固定したものはある種「死んだ」ものであり、複雑な対象の一面しか伝えることはできません。
    そして、不幸なことに往々にしてそれらは作り手の元を離れ、一人歩きし、虚像を作り始めます。
    だからといって、記事がなかったらよかったとはいえません。聴覚障害者の問題にしても、「愛は世界を救う」にしても、光が当てられる前の時代というものがきっとあり、その時点を原点とするならば、状況は改善しているのだと思います。でも、世の中は複雑系のある種際立ったものであり、善意ではじめたものがどういう実を結ぶかというのを観察していくと、しばしば善意はその後の歴史の現実に裏切られているようなことも多いですよね。
    問題をもっと狭めて、障害者の問題に限るといろんな人がいろんな形で情報発信してくれると、その多様性みたいなものも認識できるのだと思います。もちろんそのことによって今のネットの世界のように情報のカオス化がおきて、情報は混乱し、像を結ばなくなるという側面もありますが、世の中のものはいろんなところでトレードオフが発生するので、それも受け入れ、光の部分に重心をおきたいところです。
    そしてもちろん、情報発信されたものだけで像を作ってしまうというのも危険であって、発信されたものの裏には発信されないもの、あるいは発信できないものもたくさんあるのだろうと思います。読み手の一人としてこの情報化社会で必要とされているのは読みの想像力だと思います。
    もちろん情報だけに浸らず、生の現場を許される限り、知るということは当然のことだと思います。

  4. 岩井さん、はじめまして。
    お返事がすごく遅くなってごめんなさい…
    すいません、僕の理解力が乏しくて岩井さんのおっしゃっている内容を把握できたのか疑問なのですが、報道する人間にとって表現や対象とする側面は千差万別であり、世間にはさまざまな情報があふれているので、読み手にも想像力やリテラシーが必要とされるということでよろしいでしょうか。
    もしそうであれば、僕もそのとおりだと思っています。意図的なデマなど悪質な情報も含めて、いかに自分の頭で物事を考え、意見を構築できるかというところが重要だと思います。
    ただ、それを実践している人はあまり多くはないというのが僕の見解です。なかなか難しいですね。
    今度そちらにおじゃまする際に、いろいろとお話できたら嬉しいです。
    よろしくお願いします!

  5. Takazawa, Toruさま
    読みにくい書き方してすみませんでした。人にものを伝えるって難しいですね。まだ、ネット上のやりとりに習熟していなくて、試行錯誤中なのです。
    いいたいことは伝わっていると思います。報道をする人が現場に出かけて取材して、それを記事として出す段階でどうしても抜け落ちてしまう部分が出てくると思います。
    そういうことは以前だったら、取材を受ける側にまわって、それが記事として出たときの実体との食い違いみたいなものを体験するくらいしか意識する場面はありませんでした。
    でも、今は、今まさに私が伝えようとして伝えられないマズさにもがいているように結構な数の人が日々実践する中でそういったメディアにかかわるもろもろのことを学んでいる時代だと思います。
    「こういう書き方をしたら読みにくいんだな」とか「こう書けばもっと伝わりやすくなるんだな」と実践の中で揉まれつつ、少しずつ賢くなっていっているのだろうと思います。
    能力が限られた個人ですので自分でものを考え、整理し、しかもその結果をなんらかの形で発信していくのは難しいです。日々それは実感します。そして、そのためか身近な周囲を見渡しても積極的に発信している人は少数です。
    でもそのために逆にやりがいも感じます。リスクもたぶん多く、失敗も多いわけですが、それも含め周囲は観察しているような気もするのです。
    そして改善改良は得意な日本人です。身近に具体的な例があれば、自分もやってみようと思い立ったり、さらにはもっと進化させた型のものを生み出したりといったことはあると思います。
    私は発信することで日々恥を重ねているような気は十分するのですが、かきがいのある恥だと思っています。「モノが自由に言え」「個人のひらめいたアイデアが循環したり」とかいった土壌を幾分かでも周囲に作っているように思えるからです。
    「生煮えでもいいからとりあえず出してみて」あとは読み手にまかせるような態度で発信しています。長文失礼しました。