鎮魂歌

『鎮魂歌』

劇団水曜日の河崎です。

すこし長い話しになる。今回はイントロにチャラけはない。

2015年1月10日、先輩であり、良き理解者であり、戦友だった男Nが逝った。
 
僕が社長を務める協和グループが新潟県で事業展開するF社の専務だった男の、62年間の人生の幕を閉じる早過ぎる無念の死だ。Nの在りし日の姿を思い出すと、今更ながら涙が溢れてくる。仕事に汚いところが全くなく、本当に出来る男で、よく2人で共に酒を飲み会社の将来を語り合った。
 
出会いは15年ほど前に遡る。
Nは課長になりたてで、事業所のNo.2が出席する会議に初めてやってきた。
新潟の事業会社と言っても、弊社が興した会社ではなく、M&Aで手中に収めた会社で言わば外様のNに話しかける者も少ない。
いっぽう当時の僕は婿養子で若くして取締役になり、周りのすべてが敵に見えた時代の話だ。
互いに孤独を感じる者同士、しかもNの会社には協和からドロップアウトしたトップが天下りしてのやりたい放題に辟易していた。かくいう僕も社員をコストとしてしか扱わず、激務を強いる会社をどうにかマトモな会社に変えてやろうと使命感に燃えていた。
常に孤独を抱える反骨の者同士、意気投合するまでに年齢の差や時間は何の障壁にもならなかった。
以来、会議で上京するたびに彼は大宮で途中下車し、僕が案内した2人の行きつけの居酒屋で僕を待った。
2年ほど経ったある日、僕はNを取締役に推した。推薦が聞き入れられたとき2人は朝まで痛飲した。さらに2年が過ぎた。今度は僕が非常勤ではあるが彼の会社の社長になり、Nを半ば強引に専務に取り立てた。
グループ会社のトップとなったNは協和の取締役会(グループ会社の幹部が出席)のため毎月上京するようになった。当然、月1回の大宮途中下車は2回に増えた。

余談であるが、Nは人生で2度のイーグルを経験している。
1回目はホールインワン。2回目はミドルの2打目が入ってしまった。
生涯で2度のイーグルを同組で立ち会ってあげたことが、今となっては僕の誇
りとなっている。

話しを戻す。6~7年前、2人で快進撃を続けていたある日、Nはドライバーが飛ばなくなったと言った。僕は「歳でしょう!」「力が入りすぎ!」と冗談で返し2人で笑った。Nの身を病が蝕み、悲劇が刻一刻と迫るのも知らずに。
ほどなくして、いつもの居酒屋でNは右手の親指に力が入らないから、店でフォークを借りて食事をすると言い出し僕に非礼を詫びた。2~3の整形外科を回って調べているが、外科的には原因が分からないという。
 更に数ヶ月の時が流れ僕は血の気が引いた。その日Nは明らかに右手を隠していた。その不自然な挙動がよけいに僕の目をクギ付けにした。親指の付け根の肉が抉り取られたように欠落している。「ALS!?」医学に無知でもピンときて率直に聞いた。総合病院を紹介され診断を受けたが、医師からは「ALSにしては進行が遅いから、否定も肯定もできない」と言われたそうだ。

4年ほど前だろうか、Nは長年住み慣れた一軒家を処分し、新潟の駅前にマンションを購入したことを「今から凄く楽しみだ」と自慢げに語った。
そのころには2人は口にこそ出さないが、Nがあの時に恐れた『ALS』にかかっている事は互いの『暗黙の了解』になっていた。
今思えば、子供のいないNは自分の『死』を悟った時、1人残される細君のためにしたことだと思う。Nはそういう男だ。

それからもNと月2回の大宮での途中下車は続いた。忘れもしない2013年11月5日まで.....
 その年の1月、いつもの大宮で目に見えて衰えてゆく彼を見かねて、「働けるうちはいつまでだっていてくれて構わない」と言い、「ただ僕からタオルを投げることはしないので、限界だと思ったら自らリングを降りればいい」と続けた。
 
2013年11月5日。ついにその時が来た。
毎月の恒例なのに、その時に限って「明日の株主総会の帰りは大宮大丈夫?」
すぐに分かった。恐れていたとおりNは自らの限界を告白し、涙ながらに今までの謝意を僕に告げ、引退を申し出た。
F社の決算は5月。僕は『責任感の強いNのこと、今期を限りに身を引く覚悟を伝え、後任を相談したい』のだと思った。だが違った。
『年内で引退』耳を疑ったが、すぐに直感した『Nの肉体は限界なんかとっくに超えていた』のだ。
 
DVDをお見せしたので、ゼミ生の中にもご存知の方もあるが、現在89周年を迎える弊社は2014年3月28日、仙台の地で創業以来初の全社員450名とお世話になっている仕入れ先の幹部の方50名を招いた『経営計画発表会』を仙台で開催した。その時の特別講演が坂本先生だ。
Nは引退した後であっても、その発表会に出席することを許してくれと言った。
僕はNの体調を案じたが、断る理由などどこにもない。そのために出社できなくなったNをF社の株主総会が行われる7月まで取締役として身分を留めたのだ。むしろ2人が出会った頃に語り合った協和グループの将来像にやっと近づけたところをNに見て欲しかった。
わずか3ヶ月会わない間にずいぶん弱々しくなっていた。
1人での歩行も難しくなりつつあった。3ヶ月ぶりの再会に握手を交わしたが、内側に曲がった指は開いて握手することすら出来なくなっていた。僕は自分の手でNの開かない両手を包み込むように握った。

前述のとおり固辞するNに株主総会まで残ってもらったが、株主総会が終わって即座に退職金を支給した。
数日後F社から連絡があり、「Nさんが社長と飲みたいと言っている」と言う。
2014年7月28日、僕は新潟を訪れた。Nと普段やりとりのある社員からは事前に「会われたらショックを受ける」と伝えられていた。
17:00待ち合わせの店で『奇跡が起きた』と錯覚してしまう姿でNが僕を出迎えてくれた。3月に会った時より遥かに元気で、握手だってシッカリと握り返してきたのだ。
僕らは別れを惜しむかのごとく思い出話しに花を咲かせたが、いつしか座はお開きになった。Nと別れたあと、社員に「元気じゃないか!」、「普段はあんなじゃありません。社長と会えたのが嬉しかったんだと思います」、「思ったより長く生きてくれるかも知れないね」僕がNに会った最後の日のやりとりだ。

僕が最初に訃報を聞いたのは、Nが旅立った6日後の1月16日のことだ。
奥様からF社に連絡をもらった。葬儀まですべてを終えるまで、Nが連絡を固く禁じたのだろう。Nらしい実に天晴れな最期だと思う。
 
社長として人事の面でずいぶん楽をさせてもらった。彼に委ねたF社はリーマンショックの後も僕に業績の面で全く心配をかけなかった。安心して他の仕事に没頭できた。
生前NはF社の方針を社員にこう言って指導した。『日本一きもちいい会社』を目指そうと。
今もNの教えは守られて、後任の常務である田代と残った社員の不断の努力により眩い光を放ち続けている。

『僕もNに負けない良い経営者に必ずなります』

『合掌』

以上が僕のNに手向ける『requiem』だ。

 今はすごく悲しい。社長室にいても1人になると、Nとの思い出を振り返り涙してしまう。
今年度のゼミが終わった。どうにか時間を作って新潟に行き、Nに手を合わせてこよう。

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「鎮魂歌」への6件のフィードバック

  1. 河崎さん、ブログ拝見しました。
    涙が溢れました。
    僕も大切な人を亡くしていますし、当時は事務所に1人でしたから、気づくと泣いていました。
    前を向いて頑張ることだけが、残された者の、命ある者の使命だと僕は信じています。
    共に命有る限り頑張りましょう。

  2. 服部さん
    読んでくれたんですね?
    コメントまで頂いてありがとうございます。
    社員が多いということは賑やかで楽しいし、多くの感動もありますが、逆に言えば守らなければならない人が多いプレッシャーも多く、こういう悲しい出来事も多いということなんですね。

  3. >キャワサキさん
    社員さんが多いということは、当然守らなければならないものが多いし、悲しい別れもまた多いと思います。
    ただNさんは河崎さんに出会って、幸せだったと思いますよ。
    M&Aで吸収されて、外様になったとしても、社長が同士(当時は取締役ですね)だから頑張ってこられたと思います。
    そんな河崎さんに憧れますし、そうありたいと思っています。
    会社は社長の器以上に大きくはなりませんから、協和さんはまだまだ大きく発展すると思います。
    ぜひ人を大切にする経営を貫いて、大きく成長する協和さんを、Nさんにも、そして僕にも見せてください。

  4. 河崎さん おはようございます!
    そんなに悲しい出来事があったのですね。
    残されたご家族もさぞかしと悲しい思いをされています。
    これからは亡くなられた方の思いも合わせて前向に歩んで行くことこそが彼が望んでいることなんでしょうね。
    服部さんのコメントに書かれてある通り、命ある限り頑張って行きたいです。
    ご冥福を心からお祈りします。