今の日本に欲しい「出光佐三」



今の日本に欲しい「出光佐三」
戦後の足跡

終戦直後、1000人の社員の首を切らなかった。
油まみれになりながら笑顔で働く社員。

1953年、62歳の私が生まれた年にも
日章丸事件、巨大なイギリスの石油カルテルがイランと断行した。
日章丸をイランのアバダンまで往復させ、巨大タンカーが川崎港に到着。
メンツを潰されたイギリスが裁判に持ち込むが3週間で佐三に軍配を上げる。

石油の輸入に頼る日本、徳山の精油所はアメリカの技師団に言わせると2年かかると言われたが、
「10か月でやる」通りに、社員が団結して10か月で完成。71歳の時だ。

1945年(昭和20年)8月
出光佐三は、終戦の2日後、従業員に対し、「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。当時、多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。

1946年(昭和21年)国際石油カルテル独占を規制することを建言。

1947年(昭和22年)出光、石油配給公団の販売店指定を受ける(10月)。出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発(11月)。

1949年(昭和24年)出光興産、元売業者の指定を受ける(10月)。

1950年(昭和25年)出光興産、石油製品の輸入を主張。

1951年(昭和26年)出光興産、日章丸二世を建造。「消費者本位の石油政策」を発表(9月)。

1952年(昭和27年)出光興産、高オクタン価ガソリンを輸入。

1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。
英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。

このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。

1957年(昭和32年)出光興産の徳山製油所、竣工(3月)。

1960年(昭和35年)出光興産、ソ連石油を輸入(4月)。

1962年(昭和37年) 生産調整に反対し、出光興産、石油業法に反対。石油連盟脱退を決める(1966年(昭和41年)、生産調整が廃止されたことを受けて復帰)。

1963年(昭和38年)出光興産の千葉製油所、竣工(1月)。出光興産、石油化学工業へ進出(4月)。出光興産、石油連盟から一時脱退(11月)。

1966年(昭和41年) 出光興産の社長を退き、会長に就任。

1972年(昭和47年) 出光興産の会長を退き、店主に就任。

1976年(昭和51年) フランス共和国文化勲章コマンドール受章。

1981年(昭和56年)3月7日 95歳で逝去。

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