坂本 麹教授が退官後の身の振り方について

法政大学小学院 旧二口坂校舎で、70歳で退官する坂本 麹教授が退官後の身の振り方について帰社会見を開いた。
日刊 営業、商業甲斐、夕日新聞、読買新聞、隔日新聞、日計新聞の記者等が殺到した。

「子どもの頃は何になりたかったのですか」と質問が出た。
「戦後まもなくだったので、食うに困り、前へ前しかありませんでした」
「好男子かな」、「一曲」とかけ声がかかると、

静岡県浜松市、今はやらないかになってしまったが、かつてはやらまいかやらまいかが旺盛であった。
生まれていない頃のことを生き証人としてしゃべりまくった。

オルガン、ピアノがナゼ、浜松に根付いたか。

山葉 寅楠(やまは とらくす)(改名前は山羽(やまば)日本楽器以前の一部の楽器に「山羽楽器」の記載あり)嘉永4年4月20日(1851年5月20日) – 大正5年(1916年)8月8日)は、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者。日本における初期のオルガン(リード・オルガン)製造者の一人であり、日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。

嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩の山葉孝之助の三男として生まれる(紀伊国和歌山城下説と江戸説がある)。
父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼少の頃から機械いじりが得意であった。
また16歳頃には剣術修行に出て、大和の小野派一刀流の師範・澤田孝友のもとで腕を磨いたという。
二刀流にも造詣があったという[要出典]。だが後に職人の道を歩むこととなる。

明治維新後の1871年に長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いた。
1884年から浜松支店に駐在していたが医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負っていた。

1887年に浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び、1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。

1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立した。1891年には山葉風琴製造所が出資引き揚げにより解散するが、河合喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」を設立した。
1897年10月12日に資本金10万円で日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)に改組し初代社長となった。

1899年、アメリカへ5ヶ月間の視察旅行に出た。キンボールやメイソン・アンド・ハムリン、スタインウェイ・アンド・サンズなどを視察し、1900年にアップライトピアノを製作。

1902年3月、緑綬褒章を受章した。浜松鉄道(後の遠州鉄道奥山線)の取締役も務めた。河合楽器製作所創始者の河合小市、山葉直吉(寅楠の養子)を育てた。

1911年、浜松市会議員当選、浜松市会副議長に就任。

1916年8月8日、死去。享年66(満65歳没)。

山葉楽器製造所 オルガン
浜松尋常小学校のオルガンは1887年にアメリカから輸入され寄付されたリードオルガンで45円であったという。
寅楠は修理の際にこの構造を模写し「自分は3円で造る自信がある」と言ったという。

当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。
そこで東京の音楽取調所(現東京藝術大学)まで徒歩でオルガンを担いで運び、伊澤修二に評価を聞いたところ「調律が不正確」であることが解った。
そこで寅楠が1ヶ月音楽取調所で音楽理論を学び、オルガン第2号を製作した。

1890年に第3回内国勧業博覧会(上野)にオルガンを出品し2等賞(オルガンでは1位、2位は西川虎吉のオルガンであった)。

エピソード
事業に対する姿勢として「自分は品物を販売するに掛引をせぬ。生産費を控除して代価を定め決して暴利を貪らぬ、而して品質に対しては絶対的責任を負ぶるを信条として、社会の信用を博する覚悟である」と語っていた。

山葉 寅楠の他、出る、出るは、人物の数、一番言いたいこと、山葉 寅楠、一人だけでは成り立たなかった。各々の役割を果たす方が出てきてこそ、大きな偉業が成り立つ。
今週の金曜日にも東京で聴ける。

言っていることが正しいか。スマホで確認していたら、合っていた。

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