イノベーションが困難な理由

経済学者は、完全に合理的な人間を前提として経済を論じているが、実際の人間は必ずしも完全合理的に行動できるわけではない、というところから生まれたのが、行動経済学、経済心理学という分野だと言われています。

 その分野の研究者にハーバード・A・サイモンという学者がいます。

 彼によれば、人間は、完全に合理的ではないが、完全に非合理でもなく、限定合理的にしか行動できない、つまり、人間は情報収集、計算処理そして伝達表現能力に限界があり、この限定された情報能力のもとに合理的に行動しようとするそうです。そしてその理論を前提として、オリバー・ウイリアムソンなどによって、「取引コスト理論」が提唱されています。

この理論は、もし人間が限定合理的であるとすれば、取引をする場合に、人々は相手の不備につけ込んで、自分に有利になるように相手をだましたり、出し抜いたりするような、機会主義的な行動をとる可能性があり、そのため人間同士が取引をする場合には、お互い相手にだまされないよう注意するため、様々なコストが必要となる、という考え方です。

 この考え方によると、今の戦略や製品が現時点で既に非効率的になっていることが分かっていても、イノベーションを起こして新たな戦略や新製品の開発をしようとしても、現状に満足している利害関係者や変化することによりデメリットを被る関係者(担当部署の社員、取引会社、関連会社、お客様等)の反発に対応し、その人たちを説得して新しいことを行うためには、多大な労力、つまり「取引コスト」がかかってしまうことになります。

このような場合、たとえ既存の戦略や製品が非効率的であることに気がついたとしても、既存の戦略や製品にささやかな勝利の可能性さえあれば、このままの状態にとどまろうとする力が人間に働きます。ある意味で、現状を総合的に判断して、現状にとどまることが合理的だと判断してしまうということです。

 逆に言うと、新規戦略や新規事業を興すためには、単にそのイノベーションによって、今までよりも利益が高まることだけでは足りず、前述した「コスト」を差引いてもなお、大きな利益がでるくらいのインパクトが必要になってしまうのです。

 つまり、現在の戦略・製品より新規戦略・製品のメリットがあればいいはずですが、それでは足りず、新規戦略・製品の方が、戦略・製品と取引コスト(イノベーションのためにかかるコスト)とを足したものよりもメリットが大きくなければならないということになります。

そもそも、新規事業が事業開始前に、多大な「取引コスト」を超える利益をもたらすことに確信を持つことは到底できないはずです。しかし、これは集団によるメンタルの壁です。この壁を社員が自覚することにより、面倒と思われる「取引コスト」を引受けて、乗り越えていく力が新規事業のためには必要なのだと思います。きっと経営者の根本的な意識改革が必要なのでしょう。

経営者が変わったことで社風が変わり、社員が積極的に新規事業に取り組むようになった事例はよく聞きますが、その理由はこんなところにあるのかもしれません。

 一方で、経営者が変わることなく、新規事業を継続的に創出している経営者は、この「取引コスト」を負担と思わず、乗り越えていく力があるのだと思います。

(学会 法務研究部会 常任理事 弁護士山田勝彦)

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