神田明神 常若を生み出す歴史

神田明神は江戸総鎮守として東京のど真ん中に存在します。前回、神田明神が創造する常若の文化を紹介しましたが、今回は神田明神の歴史について社伝をもとに触れてみます。

奈良時代の天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。

平安時代の天慶2年(939)に平将門は,常陸・下野・上野の国府を占領,一時関東を支配下において新皇を称し独立国家を宣言しました。しかし、翌年に平貞盛・藤原秀郷ら征討軍に攻められ、将門は自ら先頭に立って奮戦しますが、額に敵の矢が当たって討死です。斬られた将門の首は平安京まで送られ、都大路で晒されましたが、伝承ではこの首が江戸に飛び去り、この地(神田神社があった現在の大手町の将門首塚)に落ちたのだとか。将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解しました。

鎌倉時代、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。    

戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。

慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。

次回は、祀られている祭神について触れてみます。                       (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です