NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・一向一揆篇

1564年 家康23歳 本證寺(安城市)一向一揆 家臣たちの裏切りで疑心暗鬼。

家康の祖父・松平清康は1535年、斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、尾張に侵攻しました。清康は織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めるも、初戦に大敗し野営を張ります。清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊に両断され即死しました。これを「守山崩れ」といいます。享年25歳。清康はのちに「天下を取れた名将」とまで評価されましたが、この事件で松平氏は衰退します。

家康の父・松平広忠は1549年、岡崎城に在城の時に側近の岩松八弥に村正の刀で殺害されました。享年23歳(病死の説あり)。弘忠には、織田信秀から味方になるよう誘いがありましたが、これを拒絶し三河平定に尽力しました。

家康は、祖父も父も家臣に殺されたという過去を背負っていました。

そして、自らも家臣に殺される場面に合います。

不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して家康側の砦を襲撃します。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れました。

家康の元を離れて、敵方の一向宗に駆け付けたのは本田正信など身近な家臣の10名以上となりました。彼らは、「殿との縁は一代だが、仏との縁は末代」で先祖からの信仰は変えられないと言います。「南無阿弥陀仏」と唱えれば死んでも来世で幸せになれるならば、死を覚悟できる最強の軍団になります。

あなたは、部下や同僚を信じられますか?

家康は、事前の状態に戻すという和睦(後に破られる)で決着をつけ、裏切った家臣の復帰を許しました。裏切った家臣の中には、主君への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者もいました。その様な武士には一揆を離脱して帰参することを望む者が多くいたため、家康はこの復帰を許しました。本田正信は戻らずに三河国を出て流浪を選択しますが、10年ほど後に復帰を許され、家康・秀忠の幕政の中枢にあり権勢を振るいました。

あなたが家康なら、部下の離反に直面したとき、どうする家康?                 (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆 明治6年(1873年)

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