NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす・桶狭間の戦い篇

1560年 家康19歳 桶狭間の戦いで自軍壊滅 絶望から自立を決意

徳川家康(松平元康)は6歳から人質生活を強いられ、今川家の同盟者として生きる道を決めました。今川家からは教育の機会を得て、正室まで迎えることができました。一方で、戦いの際には常に最前線に位置付けられ、死を覚悟させられる局面に立たされました。

織田家では、信秀が若くして病死し嫡男の信長に家督が移りました。信長は、奇抜な態度から家臣からあざけられ、信頼を得ていませんでした。礼儀作法を身に着けようとしない信長の教育係の平手政秀は、自ら腹を切って自死し、信長の覚醒を祈念したほどです。

今川義元は、今こそ織田家を絶滅する好機と考え、大軍を率いて尾張に侵攻します。今川家2万5千に対し織田家は2千と言われています。

織田信長は、大軍を拡散して配置している今川方の虚を突き、今川本陣への集中攻撃を行うことで、大将である義元の首を手に入れる奇跡の逆転勝利を得たのでした。

家康は、今川方の前線拠点である大高城が織田軍に囲まれ兵糧が欠乏した状況で、織田方の包囲を突破し兵糧の搬入に成功。さらに、織田方の丸根砦と鷲津砦を攻め落とし大高城の守備を務めていました。ところが、義元が討ち取られたことで、家康は敵方の領土内で孤立してしまうことになりました。

闇に紛れて大高城を脱出した家康ら30名は、途中で織田軍の兵にも遭遇しながら危機をしのぎ、自領の岡崎城下の大樹寺に到着します。しかし、岡崎城には今川の兵がいたため、入ることができませんでした。岡崎城を目前に諦めた元康は、先祖の墓前で腹を切ろうとしますが、浄土宗の住職に諭され、自殺を思いとどまりました。この時に住職からもらった言葉は、「厭離穢土欣求浄土」。意味は、穢れた世の中・国土を嫌(厭)って離れ、浄土に生まれることを心から喜( 欣)んで求める。

岡崎城にいた今川軍が撤退し、代わりに家康が城内に入ることができました。12年ぶりの帰還を果たし、元康は今川氏からの独立を決意します。今川氏への服属を断った元康は、その後、信長と同盟を結び、名前も「徳川家康」に改名し、一大名として所領を拡大していくこととなります。

家康は、「厭離穢土欣求浄土」を旗印に用い、「穢れた世を嫌い平和な浄土のような世をつくる」ことを決意したのです。

あなたが家康なら、危機から何を学び将来へ何を誓いますか、どうする家康?                 (人を大切にする経営学会会員:根本幸治)

旗印「厭離穢土欣求浄土」

桑原政則のBlogger: 2916) 厭離 穢土 欣求 浄土 (おんり えど ごんぐ じょうど)。徳川家康の旗印

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