NHK大河『どうする家康』を仕事に活かす 五徳篇 

五徳(おごとく)=徳姫は織田信長の長女。徳川家康の長男の松平信康の正室。

1567年9歳の時に同い年の信康と結婚し、岡崎城に住んだので岡崎殿と敬称されました。

二人の姫君を産むものの、いつまでも嫡男が生まれぬのを心配した姑の築山殿(瀬名)が、信康に元武田氏家臣の娘や部屋子をしていた女性を信康の側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれています。

また夫・信康とも不仲になったともいわれています。

1579年に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状を書き送りました。

  • 信康殿は気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。
  • 領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺し、「殺した者は敵の間者だった」と信康殿は主張した。
  • 信康殿は鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。
  • 信康殿と築山殿は、自分が産んだのは女子だったので腹を立てた。
  • 築山殿は、甲斐から呼び寄せた唐人僧医師の減敬と密通した。
  • 築山殿は、武田方と内通している。

この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めます。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求しました。これにより築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹しました。しかし、この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、近年では家康(浜松派)と信康(岡崎派)の対立が原因とする説も出されています。

1580年に岡崎に来た家康と会見し、織田家に返され、2人の娘達は家康の元に残りました。

徳姫は近江八幡市あたりに居住し、本能寺の変後は信長の次兄・織田信雄に保護され、信雄改易後は母親・生駒氏の尾張国小折に移り住みました。その後また京都に居住するなど、徳姫の処遇は秀吉及び徳川家の支配下にあり京都に隠棲しました。

1636年78歳で死去。墓所は京都の大徳寺総見院。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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