NHK大河『どうする家康』を仕事に活かす 祖父清康篇

徳川家康は松平家の9代目として認知されています。家康自身がが意識したのは7代目の祖父・松平清康です。家康の康の字は清康から取ったものだと考えられています。あと5年生きていたら天下も狙えたと言われる武勇と領土経営に優れた大名です。

清康は12歳で安祥松平家の当主となり、わずか10年で岡崎城などを奪取し武力で三河国を統一します。

西三河の実質的な支配権を得る過程で、従来の支配層である三河吉良氏に対する権威性の確立が求められたことから、清和源氏のひとつ新田氏一門である徳川氏の庶流・世良田姓に着目。 吉良氏に対する対立軸として世良田次郎三郎と名乗りました。これが後に孫の家康が松平から徳川に改姓を行うことにつながります。家系図の創作であり、実際には源氏の血を受け継いでいるわけではありません。

三河平定においては、幼少のころから叔父である松平信定と対立してきました。信定は尾張の織田家と連携する態度を取っていたこともあり、清家は織田家との抗争も繰り広げます。

三河をほぼ統一した松平清康は目を西の織田領に向けます。
当時、斎藤道三と対立していた織田領へ8,000の軍勢で侵攻。
1535年、尾張に侵入した清康は織田信秀(信長の父)の弟が守る守山城を攻めることになります。
しかしその陣中で突如、自分の家臣の阿部正豊(弥七郎)に大手門付近で惨殺されます。            俗に、森山(守山)崩れと呼ばれる事件です。
これには、先の宇利城攻めの際に関係が悪化した叔父の松平信定が暗躍していたとされています。  まだ25歳という若さであり、跡取りの広忠(家康の父)は9歳。                  大躍進だった家運は一気に衰退へ転がり落ちます。

なお、正豊が清康殺害に用いた刀が「千子村正」と伝えられています。「村正」が徳川家に仇なす妖刀であり、家康が村正を嫌ったという伝説が生まれる最初の出来事です。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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