NHK大河『どうする家康』を仕事に活かす 父・広忠篇

松平広忠は、清康の子供で家康の父です。

1535年に父・清康は25歳の時に戦場で自分の家臣によって惨殺されました。俗に森山(守山)崩れと呼ばれる事件です。広忠は9歳で8代目となりますが、満足に三河国の領土経営をすることができません。清康時代からのライバルである大叔父の松平信定は岡崎を横領し、広忠の暗殺まで考えます。

ここから阿部大蔵定吉の働きに救われます。大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国まで逃れ、この地に匿(かくま)われます。元服し、持広より一字もらい“二郎三郎広忠”と改めました。しかし持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡。 吉良を見限り今川義元に執り成してもらうべく東へ奔り遠州に潜伏し、駿河へ渡って保護されます。

1540年に義元の計らいで三河「牟呂城」に移されます。松平信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて岡崎城を占領しました。

1547年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代(家康)を人質として送ることとなりました。しかし、身内の戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に送られてしまいます。

1549年、人質交換で6歳の竹千代は織田家から今川家(駿府)に移されます。

1549年に広忠は24歳で死去します。病死とも家臣や一揆勢に暗殺されたとも言われています。三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害されたという記述があります。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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