NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 信忠の危機管理篇
織田信忠 織田信長の嫡男。岐阜城城主。尾張と美濃の大名として織田家の家督を継承する。1582年に甲斐武田氏を滅ぼして甲斐・信濃に勢力を拡大し、信長は天下統一後の後継者とする意向だったが、3か月後の本能寺の変で信忠は二条新御所に立てこもって明智光秀と戦うが味方軍勢少なく自刃。享年25歳。
この人は優秀で、信長もわが子への愛情を注ぎ、戦闘実績も優れたものでした。人格的にも優れている信忠に早めに織田家の事業を継承し、たとえ信長が急死したとしても織田家の天下が崩れることはないように準備に滞りはありませんでした。
1582年6月2日、信忠は信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、その際に本能寺の変が発生しました。
信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると、本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代の村井貞勝ら側近と共に二条新御所に移動しました。信忠は居住者の誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城しました。
しかし、明智軍が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃しました。介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように命じたました。
信忠は父の敵討ちのために劣勢ながら応戦しました。ここが危機管理の間違いでした。
もし信長だったら敵の襲撃を受けている父親を振り返ることなく、真っ先に京都を脱出していたはずです。それが織田家の存続になるのです。
信忠には、近江・美濃方面に逃げることはできたのです。
しかし、信忠は、「明智ならばすでに脱出口を封鎖しているだろう」とあきらめてしまいます。
信長ならば、あきらめず1騎でも逃げ切ったはずです。朝倉攻めでの退散がそうでした。
逃げていれば、豊臣秀吉も徳川幕府も存在しないのです。
あなたが信忠だったら、戦うか逃げるか、どうする?
(人を大切にする経営学会:根本幸治)
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