NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 徳川四天王・本多忠勝

本多忠勝                                           1548-1610年。家康より5歳年下。三河国岡崎出身。安祥松平家の最古参の譜代の本多一族。

幼い頃から徳川家康に仕え、1560年13歳の時に桶狭間の戦の大高城兵糧入れで初陣し元服します。1563年の三河一向一揆では、多くの本多一族が一向宗信者として敵側となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げました。1570年の姉川の戦に参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。この時に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩しました。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎打で勇名を馳せました。

1572年の一言坂の戦では偵察隊として先行し、武田信玄本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させました。家康はこの忠勝の勇猛を激賞しています。同年の三方ヶ原の戦では敗北して浜松城に逃げ帰る戦局において、山県昌景と戦い撃退しています。1573年の長篠の戦では榊原康政と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り城を守っています。1580年の武田勝頼との戦いでも高天神城を奪還に成功しました。

1584年の小牧長久手の戦では、当初忠勝は留守を任されましたが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかって家康を守り、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この勇気を見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去りました。この豪胆な振舞いや主君への思いに、敵将の豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛されました。

織田信長は「花も実も兼ね備えた武将」と評しました。                     豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」「東に本多忠勝、西に立花宗茂の大将あり」と評しました。生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

武器は「蜻蛉切」と名付けられた槍。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍」の一つ。

忠勝の娘小松殿(稲姫)は、真田が徳川の支配下に入る約束のために、真田信之の正室に迎えられました。関ヶ原の戦ではいずれに味方するかを親子で対面して相談しました。昌幸と次男幸村は石田三成の西軍に、長男信之は徳川家康の東軍に分かれ、敵対することを決意しました。信之と別れた昌幸は、信之が留守している沼田城に向かい単騎で入城して城を占拠しようと開門の声を掛けます。ところが武装した小松殿が現れ断ります。昌幸の「孫の顔をみたら退散するから」に対しても鉄砲を撃ちかけます。昌幸は「さすがは忠勝の娘じゃ」と苦笑いして退散しました。

関ヶ原の戦において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・幸村親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願しました。家康はこれまで何度も真田に負かされていたため死罪を伝えました。また後継者の秀忠は、昌幸により上田城に釘付けにされて関ヶ原決戦に遅参し、家康の怒りを被たので強硬に死罪を主張しました。しかし、忠勝は助命を懇願し、「助命なくば真田の城に立てこもり殿を相手に一戦つかまつる」とまで言い放ちます。ついに、忠勝らの嘆願が叶って真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、信濃上田領は東軍として父昌幸と戦った信之に与えられることとなりました。信之は三代将軍家光にも仕えご意見番として尊敬されます。

関ヶ原の戦からの平和な時代には、戦闘型の本多忠勝は遠ざけられ、忠勝が嫌悪罵倒していた政治的策略型の本多正信(親族ではない)が重宝されます。、晩辞世の歌「死にともな嗚呼死にともな死にともな深き御恩の君を思えば」は、晩年の不遇の中でも主君家康への変わらぬ忠誠心を物語っています。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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