NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 徳川四天王・榊原康政

榊原康政                                              1548-1606年。 家康より5歳年下。榊原家初代当主。

1548年に榊原長政の次男として三河国上野郷(豊田市)に生まれます。13歳の時に松平元康(家康)に見出され小姓となり、三河一向一揆の初陣で家康から武功を賞されて「康」の字を与えられました。

1570年の姉川の戦では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てました。1572年の三方ヶ原の戦では家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田信玄の軍を瓦解させてから浜松城に入ったといいます。1575年の長篠の戦では決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守りました。1581年の高天神城の戦では先陣を務めました。1582年の本能寺の変では家康の伊賀越えに同行しています。

1584年の小牧長久手の戦で秀吉の甥・羽柴秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせました。この合戦で康政は秀吉の織田家乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出しましたが、後に秀吉は康政の忠臣たる志を大いに褒め、和解しています。

1600年の関ヶ原の戦においては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、信濃上田城の真田昌幸からの攻撃で足止めをくらい、秀忠とともに合戦に遅参します(第二次上田合戦)。家康は秀忠の失態に激怒しましたが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われます。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われています。

関ヶ原の戦いの後に老中となるも、所領の加増はありませんでした。よく言われる「家康が古参家臣に冷淡であった」とする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけた史実が挙げられることもあり、その際には康政らはこれに憤慨していたとも、納得していたとも語られています。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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