NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 徳川四天王・井伊直政

井伊直政                                         1561年-1602年。家康より18歳年下。新規採用から出世。                               遠江国井伊谷(静岡県浜松市)生まれ。父親の井伊直親は今川義元の家臣でしたが、桶狭間戦の後に今川氏真に謀反を疑われて殺されました。生母ひよが徳川家康の家臣に再嫁したことで、14歳の直政は家康に仕えるようになります。

1581年に武田勝頼が守る高天神城で戦功を立てました。1582年の本能寺の変では家康の伊賀越えに同行しています。家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、直政が侍大将になりました。その部隊は、家康の命により武田軍の勇猛な山県昌景の朱色の軍装を継承した軍装です。1584年の小牧長久手の戦で、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになります。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようでしたが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は井伊の赤備えと称され、諸大名から恐れられました。

1586年に家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、従五位下に叙位させ豊臣姓を下賜しました。これは徳川家筆頭家老の酒井忠次を超える身分で、徳川家中で最も高い格式の重臣となりました。また、「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があり、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女たちが、直政に惚れ込んだといいます。また、直政のもてなしがとても丁寧だったという理由もあります。

1600年の関ヶ原の戦では家康本軍に随行し、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となりました。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次などを西軍から東軍に取り込むことに成功しました。関ヶ原本戦では先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政は松平忠吉(家康の四男)に先陣の戦功を取らすべく案内し抜け駆けによって戦闘が開始されました。決戦終盤は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を百余騎率いて追撃します。ついに義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍に足を狙撃され、落馬してしまいます。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追いつけず、単騎駆けのような状態であったといいます。

関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力しました。島津との和睦や真田親子の助命に奔走します。直政は戦功を称えられ、石田三成の旧領である近江国佐和山に18万石で転封となり彦根城を建てます。

しかし、直政は関ヶ原の戦での怪我がもとで、戦後2年で死去します。享年42。           井伊家は彦根藩30万石として幕末まで権勢を保ちます。

(人を大切にする経営学会:根本幸治)

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