NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 関ケ原決戦への経緯

1600年9月15日の関ヶ原の戦い。徳川家康が率いる東軍7万人と石田三成が率いる西軍10万人が関ケ原(岐阜県)で衝突し、わずか1日の戦闘で日本史が大きく動きました。

関ヶ原の戦いはなぜ起きたのか?                               衝突前のいきさつを見てみましょう。

1598年 豊臣秀吉が伏見城にて62歳で死去。                           豊臣政権は、豊臣秀頼6歳が継承し、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)が後見。石田三成は、豊臣政権の官僚として事務的仕事をしている五奉行の一人でした。

家康は、秀吉の遺言である「大名同士の婚約(同盟締結)を禁じる」という約束を破り、伊達・福島・蜂須賀との3家の婚約関係を結びます。

家康は伏見屋敷の防衛を強化。大軍勢を集結させて、権勢を誇示することで、四大老と五奉行を牽制。婚姻の件を強引に認めさせます。

前田利家はこれに対して抗議し家康と対立しましたが、運の悪いことに前田利家は1599年に亡くなってしまいます。

豊臣政権内で決定的な分裂が起きないように、重しとなっていた利家が亡くなったことで、急速にバランスは崩れます。死ぬ思いで朝鮮征伐に苦しんだ加藤清正、福島正則ら7名の武断派は、秀吉の陰で政治を動かす分治派の石田三成を憎み、襲撃したのは利家が死去した翌日のことでした。

家康が三成の隠居を条件になんとか取り持ったため暗殺実行はおまりました。

三成が隠居したことをチャンスと見た家康はせっせと邪魔者を排除しにかかります。

最初のターゲットは前田家でした。家康は前田家に豊臣家に対して謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始め、前田家を潰すという脅迫までし始めます。しかし、前田利家の妻が家康の人質となることを飲み込み、前田家はピンチを脱します。

次に家康は、会津120万石の大名上杉家にも謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始めます。しかし、上杉家はこのいちゃもんに真っ向から立ち向かいました。上杉家には謙信公から引き継いだ義の心があるため野心丸出しの家康を許せなかったのでしょう。

上杉家は家臣の直江兼続が書いたとされる直江状という家康を批判している手紙を送りつけます。いわば宣戦布告です。(直江状は後世の創作という説もあります)

家康は、手紙の内容が自分を痛烈に批判していることに怒り、会津征伐を決意します。豊臣秀頼から謀反を討伐する許可を取って、諸大名を集めて会津へと出兵しました。              (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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