「NHK大河」どうする家康を仕事に活かす 大坂冬の陣
真田幸村(信繁)は1614年に豊臣秀頼の誘いを受けて、幽閉中の九度山(和歌山県)を脱出し大坂城に入城します。
大坂城に入城したのは1600年の関ケ原の戦いで西軍として敗北した浪人衆です。
長宗我部盛親・・・長宗我部元親(高知)の四男、22代当主 毛利勝永・・・豊臣秀吉の直臣 明石全登・・・宇喜多秀家の家臣 キリシタン武将 後藤基次・・・黒田長政の家臣 長政と喧嘩し放逐 大谷吉治・・・大谷刑部吉継の子供 真田幸村の義理の弟
真田昌幸は上田合戦(長野県)で徳川軍を2回も敗北させた名将として天下に名をとどろかせていましたが、息子の幸村については知られていませんでした。
大坂城での軍議において、幸村ら浪人衆は大坂城を出て瀬田(琵琶湖)まで出撃し迎撃する作戦を提言しますが、淀君・大野治長の意向で籠城作戦が採択されます。
大坂城は南面だけが開けており、攻撃されると弱点となります。真田丸はこの南面に大坂城から独立して作られ、徳川の軍勢を呼び寄せる砦となりました。発想したのは九度山で死去した父・昌幸です。
家康は真田丸への安易な攻撃を禁じていましたが、真田丸からの挑発に乗って、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らが戦功を競って襲い掛かります。真田丸は敵軍を十分に引き付けて鉄砲による一斉射撃で駆逐し、伏兵も使って完膚なきまでに叩きます。
家康は特注の大砲で大阪城天守閣を砲撃します。この中の1発が風に乗り天守閣に命中し、淀君の女中が負傷します。これに淀君は戦意喪失し和睦を決断させます。
和睦の条件によって大坂城の惣堀(外郭)を埋められますが、徳川勢が総堀(全ての堀)を埋めてしまいます。また、大坂城内の浪人衆は戦闘継続での出世の機会を狙っており、翌年の大坂夏の陣につながります。 (人を大切にする経営学会:根本幸治)
コメントを残す