NHK大河「どうする家康」を仕事に活かす 大坂夏の陣

1615年 大坂夏の陣                                     戦闘継続を希望する大阪城の浪人衆は、武装を強めて京都や堺の町を焼き、挑発します。      家康は、歓喜で武者震いし「3日で終わらす」と豊臣滅亡の号令をかけます。

大坂城は堀を埋められたので、城にこもっての籠城戦は今回取れません。

3倍以上の大軍を前に、真田幸村(信繁)は戦略を講じます。

幸村が本陣を置いた茶臼山を起点に東西にのびる自然の谷を堀に見立て、この東西の防衛線に北進する敵軍を引き付け、後方の徳川家康本陣に対し、キリシタン武将の明石全登が率いる奇襲部隊が迂回攻撃して家康の首を取る、という作戦です。

幸村は、豊臣軍の士気を高めるため、城内にいる豊臣秀頼に前線への出撃を懇願すべく、息子の真田大介幸昌を大坂城内に派遣します。秀頼は出撃を決意し、秀吉の千成瓢箪の馬印を大手門に準備しますが、淀君が押し留めて出撃できませんでした。

戦闘の進行が早まり、奇襲部隊が準備する前に両軍の混戦状態となり、幸村の構想通りにはいきません。

この時、徳川軍の中で「浅野裏切り」の声が広がり、徳川軍が動揺し混乱状態になります。真田の忍者部隊の仕掛けかと思われます。

この徳川軍の混乱で、幸村と家康の間に空間が生じます。

幸村は、赤備えの真田部隊に突撃号令を発し、家康本陣に襲い掛かります。           「狙うは家康の首ひとつ」

家康本陣では我先にと逃げ出し、家康の馬印が捨てられます。鎧兜さえ身に着けていなかった軽装の家康は、自分の最期を覚悟し2度も腹切りの決意を発します。

家康は本陣が崩壊する中かろうじて逃げ切りました。幸村は3度突撃を繰り返し家康を追いました。精魂尽きて安井神社で横たわっている所を松平忠直軍の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」と声を掛け、「父上、これでよろしゅうござるか」の言葉をつぶやいて果てました。享年49。

豊臣秀頼は、淀君や真田大介幸昌と共に自害しました。享年23。

戦後、島津家の文書に真田幸村への評価が明記されました。                  「真田、日の本一の兵(つわもの)、古よりの物語にもこれなき由」              (人を大切にする経営学会:根本幸治)

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