人を大切にするには、異なる価値観の受容が前提
昭和の社会 「事前規制型社会(決め付けと締め付け)」
様々な取り決めにより、人々の生き方や振る舞い方が
あらかじめ大筋で決められ方向付け
エアポケット的に許されていた自由さがある社会「窮屈さの中の自由さ」
例)男はこうあるべき、女はこうあるべきと、組織ではこうあらねばならない
法令のもとでの行政による規制として社会の隅々にまで浸透、
はみ出そうとする者には大きな圧力?
令和の社会 「事後監視型社会」
行動基準は、各人がつくり従って生きればよい。
行動基準がしっかりしてさえいれば認められる。
多様な生き方が受け入れられやすい。
規制が弱まったことによる自由さがある。
それを支えるための監視からもたらされる窮屈さがある社会
「自由さの中の窮屈さ」
例)結婚しない自由、子供を産まない自由、
「昭和は窮屈、令和は自由、自由なのはコンプライアンスのおかげ」?
「昭和は自由、令和は窮屈、窮屈なのはコンプライアンスのせい」?
一面的なものであり、どちらか一方が正しいというわけではない。
コンプライアンスの基本理念
「自律としての自由」~自律的な主体を作り出していく。
人々の中に自律性を育むことを通じて社会の中に多様性を育んだ。
伊藤 昌亮 成蹊大学教授は、
昭和と令和の価値観の違いを上記のように整理しています。
両方の時代を生きて思うことは、
こうしたジェネレーションのギャップが、様々なことを引き起こしていると感じる。
私は、前回、
「働き易さと働きがいは、人によりウエイトが違う、
働き易さのみの画一的な働き方、残業ゼロ等は、
本当に人を幸せにするのか?」と問題提起をした。
「人の価値観を認めないのなら、自分の価値観を押し付けてはいけない」
自分が正しいというのは、その人にとって正しいのであり、
万人にとってのものではないことは言うまでもない。
もちろん、戦争などは、誰にとっても正しいとは思えない行為もあるが、
多くの場合は、戦争程に明らかに間違った行為まで
いかない範囲での価値観の違いによるものである。
しかし、このことは「言うは易しで行うは難し」で、
なかなか自分自身でも、
時々、自分の価値観だけで判断していたと反省することも少なくない。
ジェネレーションギャップによる弊害は、
まさに、自分の価値観の押し付けになっていることに起因すると感じる。
「人を大切にする」といっても、
多様な価値観を、まずは、立ち止まって、考えてみることが、第一歩だと思う。
自戒を込めて…
藤井 正隆
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